高山流水(明治期の飛騨の旅行記)

以下の「高山流水」(こうざんりゅうすい)とは明治時代中期に行われた飛騨地域の旅行記です。 旅の主は40年ほど前まで幕府を開いていた徳川家の人物という珍しさ満点の旅日記。 これによって今では考えられないような当時の飛騨・白川郷の暮らしや文化、地勢に至るまでが事細かく書かれています。 実は戦後しばらくまでは陸の孤島と言われた白川郷ですが、それよりも更に前、現・御母衣ダムの底に沈んでしまった地域の様子についても書かれていることから我々の研究・調査に期待を抱かせてくれそうな書物であることも分かりました。

 

この旅行記の一部を写しとってこうして文章化してくれたのが我々の仲間、N氏です。 ここまで写しとりながら且つ、自身の感想と出典元を挿入するというキメ細かさで、また時系列で並んでいるので大変わかり易い文章になっています。


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12H2411「高山流水」から108年前の白川郷の暮らしを探るIN用.doc
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 「高山(こうざん)流水」から108年前の白川郷の暮らしを探る(インターネット用)

                                  2012 H24 11 18


明治37(1904)年、読売新聞社の9月6日から12月4日までの連載「高山流水」堀内

新泉著があった。また、今年2012年、高山市民時報にも「百年前の飛騨の旅行記 高山流水」

朝戸秀臣編集著の連載があった。「高山流水」の原文を現代文に訳したのが、神通寺前住職の朝戸氏です。

 

この連載内容は、明治37(1904)年 8月26日から9月8日までの14日間を、紀州

徳川家、徳川頼倫候が白川郷(白川村、荘川村)を旅行研究して、新橋発 東京~岐阜~荘川~白川村~高山での記録で、紀州徳川家、徳川頼倫(よりみち)候・文学博士、鳥居龍造・堀内新泉・書生、中村和三郎・加納栄之助の計5人で研究旅行をしたのを、随行した小説家堀内新泉が執筆したものです。

 

これを読むと、飛騨の民俗・文化・歴史を知る貴重な記述があり、歩いた道路や古道の位置を知る重要な手掛りが書いてあり、また、遠山家(現在、旧遠山家民俗館)の室内様子なども記してあり、明治37(1904)年の食や暮らしと文化や民俗をうかがえます。

 

 この「高山流水」から一部抜粋して紹介します。 「 」内が、「高山流水」及び「百年前の飛騨の旅行記 高山流水」原文のままです。「高山流水」の振り仮名は原文のままです。また、明治37年前後の白川村、荘川村の事項を『荘川村史』上巻・下巻・続巻、『新編白川村史』上巻・中巻・下巻から紹介します。< >内は、わたくしの感想。

 

 明治初年、明治初年まで荘川村大字海上より庄川上流地方を上白川郷と呼び、白川村大字尾神より庄川下流地方を下白川郷と呼んでいた。

 1868明治元年5月飛騨県を高山に置く。6月には高山県と改める。

1872 M05 明治5年12月3日を以って明治6年(1873)1月1日とする新しい暦に変えられた。

 1874 M07お寺の本堂を仮校舎にして中野学校を開校。常徳寺平瀬・大牧・荻町・鳩谷小学校、椿原支校創立。

 1875 M08海上村以南の18カ村を合わせて荘川村、尾神村以北23カ村を合わせて白川村と

称し、ここに始めて従来の白川郷が2村となり、旧村名をとって何々耕地と呼んだ。白川郷42カ村のうち、森茂村は清見村に編入された。

 1890 M23中野学校を中野尋常小学校に改められた。

 1891 M24自転車、高山にはじめて入る。

 1897 M30以前荘川村の主な街道は、白川街道(高山~夏厩~六厩川~落部~中野)(六厩~

軽岡峠~三尾河~黒谷~新渕~牧戸~中野)と郡上街道(一色~高鷲村鷲見)(野々俣~上野~鷲見)(寺河戸~明方村~水沢上)であった。

 1897 M30明治30年5月~40年11月まで三期、直井氏荘川村村長を務める。

 

 1900 M33郡上白鳥町~荘川へ通ずる改良新設工事が北濃・鮎走・正ケ洞・西洞・釜ケ洞の嶮

を突破して蛭ケ野を経て荘川村に達した

 1901 M34新渕・六厩・中野の3校を併合して荘川小学校とし、黒谷・六厩・中野に分教場を

おく。

 1903 M36六厩~三尾河間の道路改修が大々的に施行され軽岡越の馬車の通行が開けた。その

後逐次改修が行われ、高山、荘川、白川に通ずる主要道となった

 

明治37(1904)年 8月26日から9月8日までの14日間を、紀州徳川家、徳川頼倫

候が東京新橋、岐阜、荘川村、白川村、高山を旅行研究する。

 

 1905 M38荘川村において北海道開拓移民がはじまる

 1906 M39~高山から荘川への道路開発は清見村から順次改良され明治39年から六厩。三尾河間で大改修に着手し、やがて軽岡峠の頂上には全長108mで幅4.5m高さ4mの木枠トンネルが貫通して、馬車が通れるようになった。

 1907 M40小学校6か年が義務制となった

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 1912大正の初大正のはじめ以後金輪の荷馬車が入ってきた。

 1912大正期ランプ・傘・下駄・缶詰・乾物・小間物・その他日用雑貨等を商う「何でも屋」が増えた。

 1915 T04荘川小学校、黒谷小学校、中野小学校となる。

 1917 T06 秋高山の福田徳三が人力車で高山~白川間を往復2日がかりで来たがその時村の

人々は非常に珍しがったという。

 1921 T10高山より警察電話としてはじめて(荘川)役場と駐在所に開通した。

 1923 T12白川村平瀬発電所工事着工に先立ち白鳥~平瀬間100キロを改修し、牛丸橋を架替え

るなど2輪馬車運搬を可能にした。この道路改修の結果、自動車の走行も可能になった。これ以

前の道路は馬車が通行できる状態ではなかった。

 1925 T14ラジオ放送を開始。

 1926 T15 11白川村平瀬に平瀬発電所が完成した。当時本村?では会社に対し全村点燈の供給を条件の下に其の代償として、本村地内を使用する鉄塔及び電柱建設敷地を無償提供することの契約を締結した。

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 1926 昭和の始め金輪の荷馬車は昭和の始めにゴム輪に変わった。

 1927 S02 2月25日黒谷校下・同26日新渕校下・同27日中野校下に始めて電燈がついた。

然し六厩地区その他一部に会社は言を左右にして約束を履行しなかった。今までのあん燈やラ

ンプなどの照明から便利な電気に変わる

 1927 S02 06 6月より荘川で電話加入者が増加し郵便局で電話交換事務が開始される。

1930 S05郡上より宮房自動車が入って来て牧戸に営業所を設け、主として郡上方面へ乗合兼タクシー営業を始めた。同年清見自動車も牧戸~高山間の運行をはじめた。

 

 

明治37(1904)年8月26日AM7:30、東京新橋駅を出発

「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(一) 徳川頼倫候に従ひて、飛濃越地方に向ひ旅すべく、八月二十六日と云ふに、新橋より汽車に乗りしハ、午前七時三十分なり。一行中にハ熱心なる人類學者として有名なる鳥居造氏あり。(略)岐阜縣下飛騨國大原郡白川村御母衣に一つハ全く赴(おもむ)かれむとするにあり。(略)而(しか)して徳川候ハ自ら寫(しゃ)眞(しん)機械を携(たづさ)へられ、鳥居氏ハ一組の蓄音器(ちくおんき)と人類學上必要

なる人躰(じんたい)測定器を、加納氏ハ書筆を、中村氏ハ気象測量器を携へたり。午後五時四十分岐阜に着き、今小町の旅館玉井屋に宿りぬ。」読売新聞 明治37(1904)年9/6より<新橋~岐阜は10時間余り。この日、岐阜県岐阜市今(いま)小町(こまち)の旅館玉井屋に宿泊する>

 「百年前の飛騨の旅行記 高山流水 編・挿絵 朝戸秀臣 (略)このたびの旅行の手配や段取りは中々行き届いている。さすがは、徳川候の「公式旅行」にふさわしく、行く先々への連絡やその他での準備は万端怠りないようだ。中村氏が主になって会計や庶務を担当、加納氏の役目はその補佐役のようである。(略)岐阜から上有知(現在の美濃市)までの長良川には定期的に「郵便船」が通っており、交通の大きな役割を担っている。勿論人々を運ぶ乗り合い船も盛んに運行されているのだが、これらを横目に、一行の人力車の列は、川べりの道を北に向かってさかのぼる。」高山市民時報H24(2012)年5/14より

 

 8月27日AM7:00、岐阜市今小町の旅館玉井屋にて

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(二) 二十七日。午前七時に朝餐(あさげ)を終り、直ちに宿の主人に案内させて、鵜飼の名所長良川に至る。(略)徳川候ハ自ら漁夫、漁船、屋形舟、鵜、鵜籠、その他主なる漁具など寫(しゃ)眞(しん)に取られ、(略)彼のまだお若い、洋服を召しました、お身長(せい)のすらりとお高いお方様が、

紀州の若殿様で在らツしやるさうだ。(略)正午旅館に歸りて、昨日(あす)飛騨に向ふ準備(ようい)を整へぬ。」読売新聞明治37(1904)年9/7より

 <岐阜市今小町の旅館玉井屋、名所長良川の鵜飼見学、写真撮影>

 

 8月28日AM6:25、岐阜出発

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(三) 二十八日。午前六時二十五分車を列(つら)ねて岐阜を發し、例の長良橋を渡りて川に沿ひつつ一望蒼然たる山を左右に近く望み、草深き石原道の飛騨街道を東に向ひて進むこと里餘にして和田の渡しに達す。舟に乗りて対岸に渡れバ稲美しくて水清し。岐阜を去ること三里半にして下有知村あり。路傍の一茶店に就ききて憩ふ。前に山王神社あり。午前十時十分を以て上有知町に着く。(略)岡専に寄りて昼(ひる)餐(げ)を終り、十一時二十五分を以て出發す。午後二時三十分、洲原村字洲原に着。この地にハ縣社白山神社あり。前ハ長良川の流れに望みて、境内頗る風景に富み(略)郡上八幡に着きしハ既に七時にして、(略)旅館備前屋に投じたり、夜(ばん)餐(さん)後徳川候と鳥居氏とハ(略)ここに初めて蓄音器を取出で土地の俚歌(りか)童謡などを入れられ、(略)

眠りに就きしハ、最早彼此一時に近き頃なりき。」読売新聞 明治37(1904)年9/8より

 <岐阜市発~下有知村~上有知町~洲原村字洲原~郡上八幡の旅館備前屋に宿泊する。鳥居氏蓄音機で童謡などを録音する。車を列(つら)ねてとは、この時代の人力車のことか?>

 

 8月29日、郡上八幡、旅館備前屋にて

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(四) 二十九日。昨夜夜に入りて、一行ハ當(たう)八幡町に着き、山中の(略)諸所に電燈の光りを認めて既(すで)に意外の思ひありしが、(略)町内所々に製糸場の設けあり。概(おおむ)ね水力を以て機械を運転するを見る。その他数多の大工場あり。皆水力と蒸気力とを併用して、(略)鳥居氏ハ人体測定器を以て男女二十餘人の頭形を撿(けん)し、(略)午後一時と云ふにこの地を發し、今日も亦長良川の上流に沿ひつつ同郡白鳥村に向ふ。(略)徳川候ハ車上に手早くコダクを以てその状を撮影せらる。(略)彼(あ)れハとまへバ車夫も對岸の村を見て、彼(あ)れこそ名高き落部村にて、(略)八幡町を距ること二里にして剣村あり。三時を以てこの地に着す。四時剣を發し、六時白鳥に着。井增屋(いますや)に投す。鳥居氏ハ人を集めて人体撿(けん)査(さ)、次にハ例の蓄音器に數(あま)多(た)の俚歌(りか)童謡を入れらるること前夜八幡町に於(おけ)るが如(ごと)し。明日ハ何處(いづこ)へ行くならむ。」読売新聞 明治37(1904)年9/9より

 <郡上八幡の旅館備前屋~落部村を眺める~剣村~白鳥町の井增屋(いますや)に宿泊。鳥居氏、人を集めて人体検査、蓄音機で多くの童謡を録音する。>

 

 8月30日、白鳥町の井增屋(いますや)にて

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(五)その一 三十日。(略)然(しか)のみならず火(ほの)暗(ぐら)き行燈(あんどう)猶(なほ)生命を有(いう)し、壁にハ明治八九年頃の煤(すす)ぼけたる新聞紙を張りたり。而(しか)もこれを以(もつ)て白鳥第一等の旅館と為(な)せり。

その他ハ推(お)して知るべきなり。(略)朝餉を終へて、七時三十分と云ふに雨を突いて出發す。今日も亦(また)長良川の上流に沿ふて登り行くに、道ハ次第に坂となり、(略)午前十時高鷲(たかわし)村大字大鷲に至る。(略)午前十一時を以て、一同高鷲を出發す。」読売新聞 明治37(1904)9/12より

 

<白鳥町の井增屋(いますや)から、現在の高鷲(たかす)町大字大鷲(おおわし)まで>

 「百年前の飛騨の旅行記 高山流水 編・挿絵 朝戸秀臣 (略)八幡より北の村々には電気はまだ通じておらず、4日目となるこの白鳥村の宿屋は本町の旅館井増屋という。明かりは行燈(あんどん)に灯明皿、壁には明治8、9年ころの煤ぼけた新聞紙が張ってある。それでもこの村では最高の宿なのだという。」高山市民時報H24(2012)年5/21より

 

 8月30日、高鷲(たかす)村大字大鷲(おおわし)にて

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(五)その二 これより道いよいよ嶮(けん)にして、車殆(ほと)んど行(や)る可(べ)からず。幸ひに雨歇(や)みたれバ、一同車(くるま)を下りて歩(ほ)す。(略)我れハこの時老いたる一人の樵(せう)夫(ふ)に會(あ)へり。呼とめてこの辺(あたり)の名を問ヘバ、「たツつけ」(略)「この邊(へん)ハ西洞(にしほら)と云ひまがなア」と云ふ。更に頭上の峨々(がが)たる岩を指さし問へバ、「花(はな)立(たて)岩(いは)」と敎(おし)へて行く。(略)十戸に満たぬ一ツの村あり。

ここもまだ高鷲村の内にて大字西洞(にしほら)と云ふ所なり。(略)ここに寺あり。ほう蓮じと云ふ。(略)

全てこの邊(あたり)の寺々ハ宿屋と茶店(ちゃみせ)とを兼業(けんげふ)せり。是(これ)一ツハ他に木賃(きちん)宿(やど)も無きが爲に、寺院に於いて旅人の便利を計るに起りしならむ。徳川候を首(はじめ)一行も亦午後一時三十分を以てこの寺に休憩す。

(略)二時四十分この風景好き山寺を出發す。」読売新聞 明治37(1904)9/13より

 <現在の岐阜県郡上市高鷲町大鷲~高鷲町西洞まで>

 

 8月30日、高鷲(たかす)村西洞にて

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(五)その三 徳川候に向つて切(しき)りにこの嶺(たふげ)の難を説く。「何(ど)うも冬になりますると、この辺ハ太(ひど)い雪でございまして、一冬に何(ど)うしても三四十人の旅人が雪の為に斃(たふ)れまする。私(わたくし)ハこの谷底に見える彼(あ)の村に住んで居りますもので。實(じつ)ハこの邊(へん)の医師でございますが、年々旅人が幾人と無く雪の為に、この西洞嶺(たふげ)で難渋(なんじふ)するのを気の毒に思ひまして、雪の季節になりますと、私(わたくし)ハ毎日この邊(へん)を見廻りまして、救助いたして居(を)りまする、現に昨年の冬から今年の春にかけまして、私(わたくし)の救助致しました遭難者ハ四十人程(ほど)ありました。それも私(わたくし)一人でハ到底(とて)も十分に行(ゆき)届きませぬので、二三人の村人を説(と)きまして、それを助手にして救助に従事致(いた)して居(を)りまする。


ここで若(も)し縣庁から私(わたくし)に、月々二圓(えん)づつお下(さ)げ下(くだ)さいますれバ、夏冬共に私(わたくし)がこの西洞嶺(たふげ)に小屋を造つて其處(そこ)に詰(つ)め、決して旅人に雪や暑さの為に難儀ハさせますまいと云ふことをお願ひ申してありますが、まだ御(ご)許可に成りませぬ」と云ふ。「それハ奇(き)特(とく)なことだ」とあつて、徳川候ハ無名の下に金(きん)若干を恵まれぬ。□ハ殆(ほと)んど威(ごう)泣(なき)し、先に立つて、一行を導きつつ行く行く地理を説明す。曰く「大日ヶ岳ハ彼處(かしこ)に在り、荘川鉱(くわう)山(ざん)ハ此方(こなた)に在り」とて、その指頭(しとう)ハ殆んど絶間無く諸方に転じぬ。(略)これから一町ばかり奥に「釜ヶ瀧」と申しまして、名高い瀧がございます、(略)此處ハこれ我が本州中央山脈の分水嶺(ぶんすいれい)にして、(略)嶺(たふげ)の上に平原あり。(略)


ここが美濃(みの)と飛騨(ひだ)との國(くに)境(さかひ)なりと云ふ所にて、(略)鳥居氏の句に曰(いは)く「嶺(たふげ)越えて始めて聞くや飛騨訛(なまり)」(略)道ハ次第に下りと成れり。(略)山川に沿ひつつ下ること里餘にして飛騨の國大野郡荘川村大字中畑に達し、水車の音、谷の流れと何と無く片山里の哀れさを歌ふ寒村の木賃(きちん)宿(やど)、何某方へ日を行き暮して宿(やど)りしハ已(すで)に七時四十分にて、(略)夜寒うして徳川候を始め火鉢を抱(いだ)

く。」読売新聞 明治37(1904)9/16より

 

<現在の高鷲町西洞~高鷲町ひるがの高原~高山市荘川町中畑まで。高鷲町西洞の峠は、旅人が遭難しやすい場所であったようだ>

 

 8月31日、荘川村中畑の木賃(きちん)宿(やど)にて、早朝

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(六) 三十一日。(略)昨日よりの雨尚(なお)(略)降(ふり)切(しき)りて、激しき鮎(あま)滴(だれ)の音ハ我等一行を圍(かこ)みたり。(略)何處(いづこ)とも山寺の朝の鐘の響きを聞きぬ。」読売新聞 明治37(1904)9/20より

 <荘川町中畑の宿にて、この日雨である>

 

 8月31日、荘川村中畑の木賃(きちん)宿(やど)にて、朝「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(六)その二 馬ハ殆んど人間と同居のさまにて、(略)「老爺(ぢい)さんお齢(とし)ハ幾つだね」と問へバ老爺ハ眼臉(まぶた)の皺(しは)を伸し、おれかな、九十八になります」と云ふ。(略)中村氏に問へバ、徳川候ハこの雨を衝(つ)き、鳥居氏と共に石族の捜索に赴(おもむ)かれぬと云ふ。読売新聞 明治37(1904)9/22より

 <主屋内に馬を飼っており、地域性により旧荘川村は馬の割合が多かったことが『荘川村史』に記してある。白川村は牛の割合が多かった>

 

 8月31日、荘川村中畑の木賃(きちん)宿(やど)にて、午前中

「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(六)その三 雨また烈(はげ)しく降(ふり)出(い)でし時、徳川候ハ一ツの石族を捜し得て歸(かへ)られぬ。(略)一同心勇みて朝餐(あさげ)を終(おへ)る。折から當(たう)荘川村の村長直井氏徳川候を訪(と)ふ。徳川候ハ直ちに引見あり、(略)何事にも非常なる注意を以て臨(のぞ)まるる徳川候ハ、今朝もペンを片手に村長と姿勢正しく對座あり、(略)且(か)つ問ひ且つ記さるること約三時間の久しきに渡りたり、(略)

 やがて徳川候の許(もと)より一同ハ左(さ)の命(めい)に接したり、「今日午後一時當(たう)地發程、直井村長の先導にて山路白川村に向ふ、一同成る可(べ)く身輕に結束し、不用の荷物ハ當(たう)地に残し置くを便利とす。行程四里半」と。時に午前十時三十分なり。

 これに先立ち直井氏ハ、宿の主人に其旨を傳(つた)へて、白川村大字御母(みほ)袋(ろ)の素封家遠山(とほやま)喜代(きよ)松(まつ)氏方に急がせぬと云ふ。昼餉(ひるげ)終ると倶(とも)に皆思ひ思ひに結束す。(略)見れバ三人の人足は、背負子(しょひこ)に緊(しっ)乎(か)と荷物を背負ひ、命の下るを待つさまなり。(略)雨を衝(つ)いて出發す。時正に一時なり。」読売新聞 明治37(1904)9/23より

 <荘川村の直井村長が一行を訪ねて、白川村御母衣村の遠山家まで案内を申し出る。中畑村の宿の主人が、徳川候一行の御母衣村遠山(とほやま)喜代(きよ)松(まつ)氏方へ訪問を急いで知らせに行く。一行は中畑をPM1:00出発する>

 

8月31日、PM1:00に荘川村中畑を出発

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(六)その四 御苦労さまながら例の直井氏を案内として、(略)されば白川村字御母袋に至る間の、畧如何なる土地なるかを記して筆を進めむとす。一行中畑を發して、北に流るる荘川と呼ぶ一條の山川を左に瞰(み)つつ白川村の方へ向へバ、田野(でんや)甚(はなは)だ稀(まれ)にして、作物ハ多く稗(ひえ)の類(たぐゐ)なり。(略)行くこと半里、道(みち)福(はば)次第に狭く、加之(しか)も坂急にして草打合ひ、歩々牛糞を踏んで進む。

只ある野(や)橋を越えて川の右岸に渡れバ、道いよいよ嶮(けん)にして、忽(たちま)ち(略)川ハ千仭(じん)の低き處(ところ)を走(はや)下(くだ)り、その音響々地下に叫ぶを聞く威(かん)あり。而(しか)も歩(ほ)毎(ごと)にこの威(かん)深きハ、これ全く河流の直下せる為にハあらずして、我等が今登り行く坂(さか)路(みち)の嶮(けは)しく直立するが為なり。

 さハ云へこの辺りの風景ハ、やや一行の労を慰し、むはれ晴天ならむにハ、必ず徳川候の撮影せらるるならむと見ゆる。一曲の山川を脚下萬仭(じん)の低きにして、對岸の霧立渡れる山本の杉生(すぎふ)がくれに世離れしたる二戸若しくハ三戸の里あるを見る。

 「彼(あれ)ハ」と指(ゆびさ)し村長様に伺(うかが)へバ、「上(かみ)のが牧戸、中のが岩瀬、やがて下(しも)の方に見えるのが赤谷で、彼(あ)の辺ハまだ荘川村の内です」と敎へらる。「村長さん最(もう)う何(どの)位(くらい)來(き)ました」と問へバ、「この先の中野と云ふ所で、先づザツと一里半ですな」と答ふ。我れハ既に白川村に達したりと思ひしに、まだこの辺ハ荘川村の内なりと聞き、實(じつ)ハ失望したれども思ひ返して勇を鼓(こ)し、進むこと丁(ちょう)

余(よ)にして、山腹に村あり。土地やや平(たひら)かにして、數(かぞ)へつくせバ二十戸餘の草屋あり。

 時ハ恰(あたか)も二時半にして、雨ますます強く降る。先導雨中に歩を止め、「一寸(ちょっと)この村にお立寄を願ひましやうか」我等が為にハ出來(でか)されたり直井氏」

読売新聞 明治37(1904)9/25より


 <荘川町中畑を出発して~牧戸村~牛丸村~岩瀬村~中野村>

 「百年前の飛騨の旅行記 高山流水 編・挿絵 朝戸秀臣 (略)中畑を出て庄川に沿って北へ

と進む。田畑はまれで、作物はほぼ稗のようだ。たまに見える小さな田の稲も実りはあまり良くないように見える。およそ半里も歩くと、いよいよ道は狭くなり、一本橋を渡ると、急な坂道に草が茂り、歩みに息がはずむ。2、3戸の民家が見えるところで村長さんに尋ねると、「上(かみ)のが牧戸、中のが岩瀬、やがて下(しも)の方に見えてくるのが赤谷で、ここはまだ庄川の内です。その先の中野というところで1里半なります」と。」高山市民時報H24(2012)年6/11より

 

 8月31日、荘川村中野にて

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(六)その五 中野の里を右手に見つつ、(略)徳川候ハ嘉念坊善俊聖人の御墓に詣でらる。(略)徳川候ハ照蓮寺に暫く雨を避けられ、三時を以て發程せらる。中野にハ酒煙草駄菓子など物売る家の二三戸あり。中村氏直井氏に御母袋への土産にハ、何が宜しからむと商議の上にて、此處に酒を買ひ、更に一人の人足を雇ひて運ばしむ。(略)中野村外忽(たちま)ち谷あり。徑尺餘の材木の、皮を剥(む)きたる圓(まる)木(き)を縦(たて)様(ざま)に幾本と無く谷に列(なら)べて敷(し)きたるを見る。(略)

谷を渡れバ秋草の、今を盛りと咲き乱れし山の裾野に□ほどの徑(みち)あり。少時(しばし)辿(たど)りて行く間(ほど)に、荘川村字海上とハ(昔ハ知らず)名のみにて、今ハ全く河上(かじやう)(荘川なり)に立てる村に着きしハ、恰(あたか)も三時半なりしが、家屋の構造この辺りよりして、先づ次第に一変するを見る。」読売新聞 明治37(1904)9/27より

 <旧荘川村中野地区には、商店が数件あったようだ。中野村と海上村にある境界の谷は「宮谷」のことか?>

「百年前の飛騨の旅行記 高山流水 編・挿絵 朝戸秀臣 (略)この照蓮寺境内に旧い石の玉垣

に囲まれて、皇子のお手植えと言われる千重の躑躅(せんえのつつじ)がある。数十本からな

る、2抱えも3抱えもある大きな株である。」高山市民時報H24(2012)年6/18より

 

 8月31日、PM3:30に荘川村海上地区にて

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(六)その六 海上に來つて、先づ著(いちじる)しき変化を暴(にはか)に示すものハ、家屋(かおく)の異様なる構造なり。ここにハ四五戸の民家ありしが、いづれも見あぐるばかりに家の棟高く空を□し、屋根ハ棟木の上に相會して鋭角を為(な)す勾配極めて急なる茅葺(かやぶき)にして、木材ハ少くも全て八寸角位の柱を用い、普通のものにして猶(なほ)三階、以上ハ4階5階に造り、床ハ板敷にして四間位に仕切り、彼方(あち)此方(こち)に一枚若(も)しくハ二枚の菅(すげ)莚(むしろ)を敷き一坪餘の爐(ろ)を切りて、中に大きなる金輪を据(す)ゑ、夏も熾(さか)んに火を燃すこと前記中畑辺と異なること無し。(略)この地の杉下利右衛門と云ふ人の家にハ近年この地の山畑より掘出しし石鏃數多ありとのことにて、直井氏徳川候をその家に案内申す。生憎(あいにく)主人不在なりとて、家人候に一ツの矢の根石を探し出でてまいらせぬ。時既に三時半。雨また降出て、風さへ添(そ)はる。

 物ともせられず徳川候ハ直に發程せらる。(略)これより路(みち)ハまた嶮(けん)なり。(略)登る坂路ハ歩毎に嶮(けは)しく、(略)一気に峻(しゅん)坂(ばん)を馳(は)せ登れバ、野あり。一面今や薄の穂銀の如(ごと)し。(略)

 今度ハやがて下坂なり。その急なること壁の如(ごと)し。すべらじとすれバ、眼下忽(たちま)ち一川あり。

 わう然として淵を為(な)し、上に橋ありて、畫(えが)ける如(ごと)く架(かか)りたり。更に眼を上ぐれバ、橋の向ふのやや平かなる所に、前記の如き異様の家屋二三戸見ゆ。先導指し願(かへり)みて徳川候に向ひ、「彼(あ)れに見えまするのが尾神でございまして、この川が荘川村と白川村との境界に成つて居りまする。」

読売新聞 明治37(1904)9/28より

 <高山市荘川町海上~岐阜県大野郡白川村尾神まで。尾上郷川の南が荘川町海上で、尾上郷川の北が白川村尾神地区。御母衣ダム水没前の海上地区は、河岸段丘の上下で上(うわ)海上と、下(した)海上があり、上海上地区の2軒に杉下の名があり、下海上地区の一軒に杉下の名ががある。本文、海上地区の杉下利右衛門とは道の記述から、下海上の杉下家の先代なるか?>

 

 8月31日、白川村尾神地区にて

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(六)その七 家毎の庭に必ず花園(はなぞの)ありて、(略)「彼(あれ)ハ多分佛にあげるが為に作るのでせう」(略)例へバ今一行の過去りしこの白川村の入口なる尾(を)神(がみ)然(しか)り、その位地これと白川を隔てて相(あい)對(たい)する赤谷(僅に二戸の家あるのみなり)亦(また)然(しか)り、(略)尾神以北ハ、路低く川

に沿い、その幅の狭きこと、草深きこと、石多きこと、實(じつ)に名状せむやう無し。而して深樹路を挟み、歩々牛糞の岡をバ迂回せざる可(べ)からず。而も一ツの馬糞無し。また以てその如何(いか)に路悪くして、この辺りに嶮しき坂の多きかを證(しょう)したり。」読売新聞 明治37(1904)9/29より

 <尾神村の対岸は、荘川町赤谷と、白川村大字長瀬小字秋町になるが、赤谷地区の北方に二戸があったのか?もしかして、秋町の戸数のことか?昭和初期の秋町には、下屋家・秋良家・上屋家・田中家の5戸があった>

 

 8月31日、白川村福島地区へ

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(六)その八 おもはず身の毛を彌立たしむ。これ白川村福島岸險(ほき)の難所なりと云ふ。(略)日暮やうやくこの岸險(ほき)を過ぎ去れバ、谷あり渡すに獨(どく)木(はく)を以て橋と為(な)す。(略)

行くこと程無くして少(すこし)許(ばかり)の平地あり。平地あれバ又二三戸の村あつて、白川村字福島となむ呼ぶ。」読売新聞 明治37(1904)10/1より

 <白川村の福島歩危の難所を進み、福島村へ>

 

 8月31日、福島地区から御母衣へ

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(六)その九 川の向ひにありとハ云へ、近く此方の家の棟に迫(せま)れる一□

夏木立に蒼然(そうぜん)たる前山を仰げバ、何時(いつ)の頃のなが雨にか、山崩れせし跡ならむ、残れる雪のそれにも似(に)て、頂き近きあたりより麓にかけて、土また石の辷(すべ)りし痕(あと)ハ、宛(さ)ながら瀧の眺めを為(な)したり。やがて時刻ハ五時を過ぎ、(略)白川の、牧となむ呼ぶ里に來(きた)れり。(略)やがて直井村長雨に一行をかへりみて呼んで曰(いは)く、「さあ、最(も)うこの次が御母袋でございます」(略)今宵徳川候の宿(しゅく)所に當てられむとする遠山喜代松と云ふ人の家なりけり。」読売新聞 明治37(1904)10/2より

 

 <福島~牧~御母衣の遠山家に到着。福島地区の対岸に現在も山崩れ跡が残り、白川村長瀬の小字貫見か小字秋町に属する。>

 

 8月31日、白川村御母衣地区の遠山家に到着

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(六)その十 家の北端(はづれ)に三間許(ばかり)の縁頭(えんさき)あり。ここに附(つ)きて左に廻(まは)れバ、少(すこし)許(はかり)の庭ありて、此處(ここ)にまた二間許の縁頭(えんさき)あり。この縁頭(えんさき)ハ家の北端にして、またその側面に方(あた)りたり。づハ此處(ここ)を正面として加納氏の書きたるものにして、今我が記しし長さ二間許(はかり)の縁頭(えんさき)と云ふハ、左の5階の下(もと)に見ゆる謂(い)ふなり。徳川候ハこの縁頭(えんさき)にて草鞋(わらぢ)を解(と)かせ、我等(われら)ハ前記(ぜんき)の縁頭(えんさき)にて草鞋(わらぢ)を解(と)き、上(うへ)にあがれバ八畳(でふ)の座敷あり。本床(ほんとこ)備(びん)後(ご)表(おもて)の板の如(ごと)き畳をひたと敷(しき)詰(つ)めたり。

これハと少しく意外の思ひし、見渡す柱また板戸、天井裏に至るまで、いづれも木材見事にし

て、而も鏡の如く艶(つや)光(ひかり)す。猶(なほ)少(すこ)しく精細(こまやか)に云へバ、縁頭(えんさき)の二間四枚の障子を開けて内に入れバ、左ハ二間四枚の板戸にして、正面と右にハ各々二間四枚の唐紙(からかみ)立ち、右二枚の内ハ押入にして、残る二枚の内にハ佛間あり、佛間の正面にハ、見事に荘厳(しゃうごん)したる佛壇あり、光明赫(くわく)輝(やく)として人目を奪(うば)ふ。横に珠(じゅ)數(ず)架(かけ)あり、少(すくな)くも三十連以上の珠(じゅ)數(ず)かかれり。(略)さて一行のこの家に着せしハ、この日の午後六時五分にして、(略)而(しか)して我等が部屋ハ、前記八畳の座敷と直(ただ)ちに定(さだ)まりたり。(略)

 雨に濡れたる衣(い)を脱し、富まぬ鞄(かばん)に單(ひとえ)物を取り、着(き)更(がへ)を終つて一服吹(ふ)かし、先(ま)づ徳川候に伺(し)せむとて、正面の唐紙すつと引(ひき)開(あ)くれバ、此處(ここ)も八畳の座敷にして、その構造の見事さハ我等の部屋に幾陪(いくばい)し、ここにハ、床の間あり違(ちがひ)棚(だな)あり。先(ま)づ見る床にハ元信が虎の一軸かかり居(な)り青銅の瓶(へい)に桔梗(ききやう)と女郎花(をみなへし)との二色(ふたいろ)を床(ゆか)しや西山流に活(い)け、違(ちがひ)棚(だな)にハ高(たか)卷(こき)□の料紙文庫に古代紫(むらさき)の緒(ひも)附(つ)けたるが置きてあり。これハとばかり我れハ再(ふたた)び意外の感に激しく撃(う)たれ、一禮(れい)申して正座の方を見まゐらすれバ、風采(ふうさい)温(をん)雅(が)、擧(きよ)止(し)端麗(たんれい)、而(しか)して今年三十三歳に渡(わた)らせらるる少徳川頼(らい)倫(りん)候ハ、絽の地に葵(あふひ)五(いつつ)紋の羽織を最も氣高う召(め)させ、雪の如き蛇腹の緒(ひも)の房(ふさ)御(おん)胸の辺りにばらり。見奉(たてまつ)るも眩しや、その色炎々燃え立つ如きひの紋綾(りん)子(ず)のしとねの上に悠然(ゆうぜん)と御寛(ねん)座(ざ)あり。

 徳川候ハ近うと我れを召(め)させ、「我々が地方に出かけると、時々こんな場合に臨みますが、此處(ここ)で斯(こ)んな待遇に會(あ)はうなどとハ少しも思ひませんでした、第一此地(ここ)で斯(か)う云ふ結構な家に宿(とま)ることが出來やうなどとハ全く意外でした。併(しか)し斯(こ)う鄭(てい)重(ちやう)に侍(もて)遇(な)されて見ると、まるで書生風でも居(ゐ)られぬので」とまで語られし時、「えへん」と一つ咳(せ)き拂(はらひ)、スツと唐紙開くよと見れバ、次の間(ま)より先(ま)づ恭(うやうや)しく一れいして、左の足より静(しづか)に運ぶハ、礼服着(つ)けし四十餘(あまり)の中(ちう)身(ぜ)丈(い)の、色白くして眉(まゆ)濃く、眼(まなこ)涼しく鼻高く、口先(くちもと)緊(きつ)乎(こ)引締りし人品(じんひん)好(よ)き男にて、礼儀正しく、口(こう)上(じやう)にも淀(よど)み無(な)く、今また改めて徳川候に一れい申しあぐるハ、これぞこの家の主(ある)人(じ)にて、前記遠山(とほやま)喜代(きよ)松(まつ)と云ふ人なることを、我れハ側(そば)よりその口(こう)上(じやう)によりて知れり。

 主(ある)人(じ)遠山氏ハ、やがて座(ざ)の一隅(ぐう)に退(しりぞ)きて、「えへん!」とばかり座を占(し)めつ。兼(かね)て供(そな)へし器(きき)局の戸をそつと取退(の)け、金光燦(さん)たる九谷焼の茶器を取出(い)で、徳川候に一煎(せん)まゐらする手前ハ決して素人(しろうと)ならず。徳川候の敏(びん)なるそを直(ただ)ちに一瞥(べつ)あり、凝然(じつ)と眉(まゆ)を寄せられぬ。」読売新聞 明治37(1904)10/4より

 <御母衣の遠山家にPM6:05到着する。遠山家には縁側が2ヶ所あり、徳川候は家の北面縁側から上がられたのか?家の北西端には来客専用の便所がある。一行4人は、家の東面縁側から上がったようで、「ないじん」と呼ぶ8畳の部屋に入った。「ないじん」の西の部屋が「おくのでい」と呼ぶ8畳の床の間部屋で徳川候が使用された>

 

 8月31日、遠山家にて夜

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(六)その十一 折しも既(すで)に夜ハ七時なり。雨尚(なお)烈(はげ)しく降(ふり)荒(すさ)べり。(略)

我れハ「高山(かうざん)流水(りうすい)」と僅(わづか)かに題を書きたるのみ、腹中の虫ハ切(しき)りに餓(き)を訴へて、(略)時刻を見れバ早(はや)十時を十分過ぎたるに、我等ハ未だ腹に一粒の必要品をも送る機会に接し得ぬなり。(略)

火鉢を間に黙然(もくねん)たり。(略)十時十有(いう)5分と云ふ時刻に至りて報知艦ハ、これぞ謂(い)はゆる有難迷惑の報告を齎(もたら)したり。曰(いは)く、「風呂桶を清めて立直しましたので、甚(はなは)だ遅く相(あい)成りましたが、何(ど)うかお召し下さいますやうに」と。」読売新聞 明治37(1904)10/5より

 

 8月31日、遠山家にて夜10時すぎ

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(六)その十二 徳川候ハ程無く湯(ゆ)浴(あみ)を終りて歸(かへ)られぬ。次ハ鳥居氏と我れ相次いで行く。その道筋を□さむか、例の二間四枚の西の端なる板戸を開くれバ、此處ハ十二畳の板の間にて、左の方にハ二間四枚の障子立ち、障子の外にハ物置あり。右手ハ三間四枚の板戸にて、その内ハ押入らしく、向ふハ四間の板壁にて、西のはづれを次の間の通路に三尺ばかり開け、建具の代りに一枚の菅(すげ)莚(むしろ)を垂(た)れたり。見れバこの十二畳の部屋にハ、枕と枕とを突き合わせて、一側(かは)に六ツづつ二列に十二の寝床を延(の)べたり。(略)

さてこの部屋を過ぎ、例の菅(すげ)莚(むしろ)を揚(あ)げて次の間(ま)に出(い)づれバ、此處(ここ)ハ畳二十五畳も敷(し)きつ可(べ)き大廣(ひろ)間(ま)にて、すべて板の間に菅(すげ)莚(むしろ)を敷き、三方ハ板壁にて表の一方のみその二間(けん)ハれん子(じ)に成り、他にハ一面おなじく菅(すげ)の莚(むしろ)を垂(た)れ、室(へや)の真中に廣(ひろ)さ一坪餘(あまり)の爐(ろ)を開(あ)けて、牛をも圓(まる)にて炙(あぶ)りつ可(べ)き例の金(かな)輪(わ)と云ふものを据(す)ゑ、これに長さ六尺ばかりの薪(まき)材を焼(く)べて、夏尚(なお)熾(さかん)に火を燃したり。

この部屋の爐(ろ)縁(べり)を過ぎて右に曲れバ、また一枚の菅(すげ)莚(むしろ)懸(かか)りたり。片手にこれを揚(かか)げて入れバ、此處(ここ)にもまた廣(ひろ)さ二十畳ばかりの廣(ひろ)間(ま)あり。おなじく板敷にて、一面菅(すげ)莚(むしろ)を敷き、中に廣(ひろ)き爐(ろ)を

開(あ)けて、煮炊すること前の如し。この部屋に入(い)りて、遙(はる)か右手を見れバ、彼方(かなた)にもまた一枚の菅(すげ)莚(むしろ)を垂れたり。察するに彼(か)の奥にもまた幾ツかの部屋あるなる可(べ)し。(略)

また一枚の菅(すげ)莚(むしろ)を掲(かか)げて入(い)れバ、ここにハ三間(けん)に四間(けん)位の一室あり。見れバ此處ハだい所(どころ)にて、板の間の向ふに長方形(長さ七尺幅三尺位にして東京の湯槽ににたり)の水槽あり。

 筧(かけひ)の清水満(みち)溢(あふ)れて、一方の口より外に瀧の如く流れ落ちたり。其處(そこ)に少(すこし)許(ばかり)の土間ありて、優(いう)に人二人入りつ可(べ)き鉄砲風呂あり。近き辺に肥松を焚きて光と為(な)せり。我れハこれに一浴して、水槽の縁(ふち)より流るる清水の口に頭を洗ひ、手拭(ぬぐひ)を濯(すす)ぎなどして心地快(よ)く満身を清めぬ。」読売新聞 明治37(1904)10/8より


 <徳川候、湯を終え、鳥居氏・堀内氏が入浴する。ここでは風呂場にゆくまでの各部屋が記してある。この当時、明治37年の遠山家の間取りと現在の間取りが同じかどうか分からないが、現在の、旧遠山家民俗館パンフレットの1階平面図から察するに、「ないじん」8畳→「でい」12畳は、18畳か?→囲炉裏のある「おもや(おえ)」25畳は、21畳か?→囲炉裏のある「だいどこ」20畳ばかりは、18畳か?→本文での[だい所(どころ)]は、「みんじゃ」と呼ぶ勝手場のこと→「みんじゃ」の一角北に風呂場「すうる」があった、ということになる>

 

 8月31日、遠山家にてPM11:00

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(六)その十二 この夜一同入浴を終りて、夕餉(ゆうげ)の膳(ぜん)に就(つ)きしハ、既(すで)に十一時なり。(略)米も至(いた)つてお粗末ながら時に取りて(略)さて給(きふ)侍(じ)ハ如何(いか)なる人なりしぞ。婦人ハ席に影だに見せず。礼服着用の主人(あるじ)が盆を扣(ひか)へて座り、決して手を食器に觸(ふ)るること無く、盆に茶碗を受けたる儘(まま)、おなじ輪島のお鉢(はち)より三(み)杓(しゃく)子(し)半(はん)に盛りて出す、その体(さま)いかにも厳(おごそか)なり。

食事終れバ、はや十二時に近(ちか)かりき。眠きこと限り無し。されども我れのみ寝る可(べ)くもあらず。

徳川候ハ熱心に、主人(あるじ)にこの地の先(ま)づ産業の事などを問(と)はる。(略)「さあ早く鳴物(なりもの)を出して、今夜ハ皆騒げ!騒げ!」「おお!」と答(こた)へて二挺(ちやう)の三味(しゃみ)ハ、家長が伜(せがれ)の手に依(よ)つて運ばれたり。

然(しか)るに三味(しゃみ)ハ女の手に依(よ)つて引かれ、唄ハ男のと思ひの外(ほか)、(略)この地方の名物とも云(い)ふ可(べ)き

「輪島節」ハ、先(ま)づ左の如(ごと)く唄はれたり。(略)鳥居加納の両氏ハ蓄音器を取出し、以上の歌と倶(とも)に三味(しゃみ)の音をも入れむとすれど、皆(みな)しり巡(ごみ)して応ずる者無し。ここに於(お)いてか八幡、白鳥などにて入れし歌を先(ま)づ一同に聞かすれバ、一座何(いづ)れも眉(まゆ)を顰(ひそ)めて、我れも我れもと蓄音器に近附(づ)き來(きた)る。

 鳥居氏最もその説明に力(つと)めて後(のち)、三味(しゃみ)と二三の「輪島節」を蓄音器に入れ得たり。時既(すで)に二時を過ぎぬ。(略) ここハいづこぞ、ああ飛騨國 御母袋の里! 」読売新聞 明治37(1904)10/10より

 <PM11:00、夕食。食後、三味線を用いて唄の披露があり鳥居氏、蓄音機に録音する。

 <来客の食事の席に女性が座らないのは、この地域の風習か?>

 

 9月1日、遠山家にて2日目、AM6:00

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(七) 九月一日。今朝ハはからず寝過しぬ。六時と云ふに起(おき)出(い)でて先づ外を眺(なが)むれバ、嬉(うれ)しや雨ハやみたれど、湿雲猶(なお)前山(せんざん)の峯を壓(あつ)して、霧漠(ばく)々と立渡れり。楊枝(やうじ)使ひながら手(て)拭(ぬぐひ)片手に庭に下り、軒下傳(づた)ひ稗(ひえ)畑(はたけ)を左にして南に向へバ、家の南端ハ牛屋にて、人の住居と相接し、牛ハさながら家庭の一員たるの感(かへ)あり。牛屋の角を東に曲れバ、甚(はなは)だ不淨なる、但しこれ無かる可(べ)からざる所あり。飛騨國ハ、一般に御用相済の節(せつ)、紙に代(か)ふるに「すて木」と云ふものを用ひる由(よし)を聞き及べり。物ハためしなり。機會ハ再び得(え)難(がた)しと、我が好奇心ハ大いに動きぬ。(略)

 筧(かけの)の位置より東に方(あた)りて、その間(かん)近(ちか)く三間に五間位の製糸場あり、製糸場の少し向ふに古き三階の草屋あり。共に遠山氏の所有なりと云ふ。さて製糸場ハ、甚(はなは)だ近く後の山の麓にり。

 水力を利用して、製糸機械を運転せるものの如(ごと)し。(略)女子の服装ハ昨夜と別に変ること無く、髪ハ古風に結(ゆ)ひ為(な)せる島田あり、丸髷(まげ)あり。(略)かくて我が部屋に歸(かへ)り來たれバ、時既に六時四十五分にて、(略)我れ机に向ひて、また紀行に筆執(と)れバ、裏の山にて雉(きじ)子鳴きぬ。徳川候に歌あり。その歌左に、 ふりはへて我れ訪(え)ひ來(く)れバ子を思ふ 御母袋の里に雉(きじ)子なくなり 」読売新聞 明治37(1904)10/11より

 <9月1日、遠山家にて2日目、AM6:00堀内氏起きて、顔洗いトイレを済ます6:45。

 遠山家玄関を入り左屋内に牛屋があり、白川村は牛の割合が多いようだ。家の東南角に大きな便所がある。遠山家の南方か?に製糸場があったようだ>

 

 9月1日、遠山家にて2日目、AM6:45

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(七)その二 今朝も亦(また)礼服着用の主人遠山氏が給仕にて一同奥座敷(徳川候の御居間)に於(おい)て朝餐(あさげ)の膳に就(つ)く。直井氏の昨夜語りし所によれバ、この部屋ハ少くも郡長以上の客ならざれバ断じて使用せしこと無しと云ふ。(略)食物ハ第一飯(はん)米(まい)の極めて粗末なるを始めとして、副食物ハ前夜と同じく平(ひら)にも壺にもその他(た)にも、芋(いも)、葱(ねぎ)、菜(な)、人参(にんじん)、牛蒡(ごぼう)などの主(おも)に野菜のみを用(もち)ひて、その外(ほか)にハ油(あぶら)揚(げ)、豆腐の一片、若(も)しくハ一個の鶏卵(この地方ハ最も佛教の盛んなる所にして、何(いづ)れの家にも鳥を飼はずと云ふ)だに無く、(略)」読売新聞 明治37(1904)10/12より

 

 9月1日、遠山家にて2日目、朝食後

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(七)その三 朝餐(あさげ)終りて後(のち)、徳川候ハ主人(あるじ)遠山氏を呼びて、熱心に白川村の研究を始められぬ。(略)」読売新聞 明治37(1904)10/13より

<ここでは、白川村について書き記している>

 

 9月1日、遠山家にて2日目、午前中1/3

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(七)その四 また何(いづ)れの家にも畳(遠山家ハ例外なり)を敷(し)かず、いづれの間も板敷(じき)に菅(すげ)莚(むしろ)を敷(し)きたるのみにて、一見我が國に於(お)いて、未(いま)だ畳と云ふものの無かりし昔の状態を思はしむ。(略)現に當(とう)御母衣に於(お)いても一人の老女が、色こそ少し褪(さ)めかけたれ、五ツ紋附(つき)に裾(すそ)模様と云ふ古風の衣服を纏(まと)へるを一行ハ見受けたり。(略)旅人(りょにん)あり、この地に來(きた)りて宿泊し、若しくハ立寄りて茶にても請(こ)ヘバ、いづれの家にても快(こころよ)くその求めに応じ、一家必ず門(かど)送りして「ためらふてお出(い)で」即(すなは)ち「気を附(つ)けてお出(い)でなさい」また「首尾(しゅび)にお出(い)で」即(すなは)ち「何(ど)うか道中御無事に」など云ふて、旅人(たびびと)を労(いた)わること、極めて懇切(こんせつ)なることハ、徳川候を首(はじめ)一行の皆(みな)親(した)しく目撃せし所なり。」読売新聞 明治37(1904)10/14より

 

 9月1日、遠山家にて2日目、午前中2/3

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(七)その五 また教育ハいかにと云ふに、村民の中に普通文字を知る者に無く、校舎ハ目下の所五つありと云へど、教育ハ未だ普(ふ)及(きふ)せず、一見(けん)誠に憐(あはれ)む可(べ)きの感(かん)あり。

次に村民の食物ハいかに。その常(じょう)食(しょく)ハ稗(ひえ)飯(めし)にて、これに杤(とち)団子(だんご)(杤(とち)の実を拾(ひろ)ふて乾(ほ)し、粉にして団子にしたるもの)を併(あは)せ食し、食ハ一日四食なりと云ふ。またこの地の山ハ杤(とち)、葛(くづ)、蕨(わらび)等の富(と)みて、自然は米の不足を補(おぎな)ひ、土地また極めて風景に富み、(略)ああ白川村よ、汝(なんじ)ハ餘(あま)りに未開ならずや。」読売新聞 明治37(1904)10/15より

 <主食は、稗(ひえ)飯で米の割合は不明。栃(とち)の実も重要な常食であった。白川郷の食文化については、『床下からみた白川郷』馬路著 風媒社2007年発行、が参考になる>

 

 9月1日、遠山家にて2日目、午前中3/3

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(七)その六 この奇(き)なる家族制度に就(つ)き、全く他に異(ことな)る點(てん)を挙(あ)げて先(ま)づ記(しる)さむ。例(たと)へバ、ここに一戸の家あれバ、その家長一人のみ正當(たう)の結婚手続によりて妻帯し、次ハ叉(また)家長の嗣子(しし)一人のみ前例によりて公然結婚するのみにて、長女次男以下にハ公然結婚することを許さず、また断じて分家独立することをも許さず、長女次男以下ハ幾人ありても、嫁(よめ)にもやらず、婿(むこ)をも迎(むか)へず、其(そ)等(れら)ハ皆(みな)悉(ことごと)く奴(ね)ひに貶して、生涯牛馬の如く使役し、ここに今猶(なほ)我が國(くに)古代の奴(ね)ひ制度の如(ごと)きの盛んに實(じつ)行(こう)せられつつあり。

されバ一家の内に多きハ今猶(なほ)五十人、少くも三十人以上の家族同居しつつありと雖(いへど)も、(略)

これを稱(しょう)して「夜(よ)ばひ」と云ふ。(略)されバこの地に於(お)いてハ、誰もこの語を口にするを憚(はば)かる者無く、「夜(よ)ばひ!夜(よ)ばひ!」と平気にて云へり。家長もこれハ敢(あえ)て咎(とが)めず、否(いな)、寧(むし)ろ公認し、世間これを見て、亦(また)普通の夫婦と為(な)し、各自また斯(か)くするを□て世の夫婦と認めたり。(略)

夜(よ)毎(ごと)我が家に歸(かへ)るが如(ごと)くして女の家に來(きた)り、明(あ)くれバ各自我が家に歸(かへ)りて稼(かせ)ぐ。これがに爲(ため)に夜間丈(たけ)ハ、甲の村の男子と乙の村の男子とハ、全く(小児を除くの外(ほか)ハ)入代りて眠るをこの土地の例と為(な)せり。斯(か)くの如(ごと)くして擧(あ)げし子供ハ如何(いか)にするぞ。これ亦(また)實(じつ)に憐(あはれ)む可(べ)き□なりとす。」

読売新聞 明治37(1904)10/16より

 

 9月1日、遠山家にて2日目、午後

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(七)その七 今度(このたび)徳川候の實(じつ)地に就(つ)きて調査せられし家族の表(へう)あり左(さ)の如(ごと)し。飛騨國大野郡白川村字御母衣 遠山喜代松方家族(三十人)戸主 亡父久四郎長男四十四遠山喜代松 妻 後妻丗一みわ長男廿一請輔(略)而(しか)して男女供に或る発達ハ極めて早く、その女十三四歳にして「夜(よ)ばひ」に來(く)る男無き時ハ、母ハ我が女(ぢよ)の不具ならぬかを憂(うれ)ひ、またその年既(すで)に十三四歳に成れバ、部屋(一室内に女多勢(おほぜい)枕を列べて寝、中に母あり姉あり叔母(おば)などもあり、ここに夜(よ)毎(ごと)各自の夫他の村より通ひ來(きた)りて宿(しゅく)す)の入口に寝するを以(もつ)て例(れい)と為(な)せり。(略)

現在我が父母(ふぼ)にてありながらも家長夫婦を父母とハ呼ばず、他の者と一般に皆(みな)父を「オヂ」と呼び、母を「オバ」と呼び、兄(家長の嗣子(しし))を「アンサ」と呼び、食物住所を異(こと)にする定めあり。(略)この日の午後、徳川候の調査一先(ひとまづ)終りて後(のち)、直井氏ハ歸(き)村せり。それより家長の案内にて、徳川候ハ家の各房を巡視せらる。(略)やがて此(こ)等(れら)の實地調査をも終られて後(のち)、徳川候ハこの地の家(か)屋(をく)を始め、數(あま)多(た)の撮影あり。鳥居氏ハ例の頭形測定に、我れハ紀行に筆執(と)りて夕(ゆうべ)に至(いた)る。

 夜(ばん)餐(さん)後、徳川候に続きて鳥居氏の姿も亦(また)何時(いづ)しか見えず為(な)りぬ。我れも続きて家を出(い)で、徳川候を跡(たづ)ねて白川の頭(ほとり)に下(くだ)り、此(こ)方(なた)彼方と見渡す中(うち)、只(と)ある□の眼頭(がんこう)に我れハ何やら黒き片(へん)影(えい)を認

めたり。」読売新聞 明治37(1904)10/20より

 <9月1日の午後、中畑~御母衣まで案内をした荘川村直井村長が帰る。徳川候、数多く撮影する。鳥居氏、人を集めて頭形測定する。夕食後、外に出る>

 9月1日、遠山家にて2日目の夜1/3

「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(七)その八 今我が彼方の岩頭に認むる物ハ(略)」読売新聞 明治37(1904)10/22より

 

 9月1日、遠山家にて2日目の夜2/3

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(七)その八(つづき)ああ深山幽谷(ゆうこく)!おんみハ眞(ま)個(こと)に我等の母也。「いざ去らば!」と徳川候に従(したが)ひ歩を移せバ、夕霧已(すで)に立渡りて、ただ聞く川□轟々たり。」読売新聞 明治37(1904)10/23より

 

 9月1日、遠山家にて2日目の夜3/3

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(七)その九 日暮れて間も無きに、夜ハ早(はや)深々と鎮(しづ)まりて、太古の御世(みよ)の静かを思はせたり。今宵(こよひ)ハ此處(ここ)の名物「小(こ)大(だい)盡(じん)」と云ふ俚歌(りか)を蓄音器に入るるの約(やく)あり。おけ

さ節、小(こ)大(だい)盡(じん)等の歌の全てを蓄音器に入れて、この地の年中行事などを聞き終れバ、今夜も既(すで)に十二時を過ぎぬ。やがて廣間を引揚げて部屋に歸れバ、夜気(やき)深々と身に泌(し)みて、虫(ちう)聲(せい)さながら雨の如(ごと)し。徳川候ハ我等(われら)の部屋に止(さい)まられ、「御母袋に在(あ)るも今宵(こよひ)限りぞ、この地に関する調査既(すで)に大方済みたり。羽衣(はごろも)障子を開けよ」とあれバ、業(なり)平(ひら)卿(きゃう)ハ心得て、さつと障子を開け給ふ。(略)

折(をり)から主人(あるじ)茶をもて來(き)ぬ。今日ハ陰暦幾日かと問(と)へバ、二十三日なりと答へて去る。徳川候先(ま)づ筆を執(と)られて我が原稿紙に、 石の上(かみ) ふるき昔ぞ しのばるる 御母袋の里の 秋の夜(よ)の月、と記さるれバ、鳥居氏も取りあへずと云ふさまにて、 その上(かみ)ハ いかなる人か 住みにけむむかしを語れ秋の夜(よ)の月、 君ハ何處(どこ)までも人類学者的なり。「それでハ私(わたくし)も」とあつて中村氏、おもひきや かかる深(み)山(やま)に 分(わけ)入(い)りて 夜(よ)すがら虫の 音(ね)を聞かむとハ、 業(なり)平(ひら)の卿(きゃう)もまた、若武者の御母袋の里に 分(わけ)入(い)れバ 駒(こま)かあらぬか くつわ虫なく、(略)徳川候ハ奥の一間に入られ、人々も亦(また)枕につきぬ。」読売新聞 明治37(1904)10/24より

 

 9月2日、遠山家にて3日目の夜明け前

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(九) 二日。おもへバ我れもまだ若し。「夜ばひ」歸(がへ)りのさま見むとて、最(も)少し寝たい眼をさまし、家の南の端(はづれ)に至(いた)り、朝霧深き稗(ひえ)畑(はたけ)の畦(あぜ)にしゃがみ、楊枝(やうじ)使ひながら

忍びて待てバ、こいつハ巧(うま)く考へたり。ここの家にハ見慣れぬ壯(わか)き男供(とも)、(略)我ハ凝然(じつ)と向ふを見つめ、一人二人五人六人、八人九人十人と一々落ちなくその人數を數ふる中(うち)、最後に一人出て來たるハ、年の頃二十二三の色黒く、ちよつと小意気な質(がら)の若物、(略)「姉さん!お前の所によばひに來る人があるか」彼の女ハ耻(は)づる色も無く「あい!ありますツ!」我れハこれにけん焉(えん)たらず。彼の女を捕(とら)へて有らゆる事を問ひ盡(つ)くしぬ。されど其(そ)等(れら)ハ我れ今ここに記すを得ず。

ただ我れ一人微笑みて止(や)まむのみ。手使ひて、例の牛屋の前に來たれバ、牛屋と一面の稗(ひえ)畑(はたけ)を隔(へだ)てて圓(えん)形(けい)の丘陵あり。こハ恐らく未だ発掘せざる古墳ならむとハ、徳川候と鳥居氏との(略)

丘陵の頂(いただき)に祠(し)あり。白山を祠(まつ)り、祠(し)ハ御母衣の鎮守たり。この祠(し)近き過去までハ丘陵の半腹に在りしを、今より五六年前に移し、前記の懸佛ハその時丘陵の頂にて発掘したるものなりと云ふ。(略)歸れバ既に五時を過ぎ、(略)さあさあ御母袋ハ今朝で御暇(おいとま)!」読売新聞 明治37(1904)

10/26より

 <現在も、遠山家の東南の平地に小高い山があり、これが白山神社である>

 

9月2日、遠山家にて3日目の朝

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(八)その二 朝餐(あさげ)終りて後(のち)、徳川候ハ叉(また)撮影を始められ十時に至(いた)る。(略)

特別の誂(あつら)へに由(よ)り、十時二十分と云ふに、主人昼(ひる)餐(げ)の膳をすすむ。今日ハ珍しくも魚(うを)あり、今白川より上りたる鱒(ます)なりと云ふ。一座先(ま)づその一片を試みれバ、久しく魚(うを)に餓(う)ゑたる口(くち)にも、その味(あぢは)ひ甚(はなは)だ美ならず。斯(か)く煮(に)るよりも寧(むし)ろ刺身にしたらバと云へバ、この魚(うを)の生(なま)ハ毒なりと云ふ、一座今や飯の一椀(わん)を終りし所に、奴(ね)ひ供の常食なりと云ふ稗(ひえ)飯を炊(たき)立(たて)來(き)たる。こハ参考品として徳川候の召されしものなりと云ふ。色さながら墨にお如し。徳川候ハ一椀(わん)召(め)されて、「今度ハ何(ど)うか白いのを」と豫(あらかじ)め断りて椀(わん)を主人(あるじ)に渡されぬ。我れハ初めよりこの参考品ハ辞退せしが、今主人(あるじ)に向ひて仰(あほ)せられし一語(ご)に□りて、我れハ畧白川村の稗(ひえ)飯の風味如何(いかん)を知り得たり。(略)

食事終りて正11時に御母袋を立つ。家(か)人(じん)皆連々として一行を門(かど)に送り、(略)坂一ツ下り、只(と)ある山の麓にかかりて振返れバ、徳川候が遙々(はるばる)訪(と)はれたる御母袋の里ハ、はや此處(ここ)にて一行に別れむとせり。徳川候に歌あり。 いつの日か 我れまた訪(と)はむ しら川の 御母袋の里よ ここにわかれむ、 我れハ現(この)世(よ)にて再びこの地を訪(と)ふべくも覚(おぼ)えず。されど世離せし彼(か)の里の、何と無く懐(なつ)かしさに、 またの世ハ我れも御母袋に 生(うま)れ來(き)て 御母袋女(おみな)と 2世(せ)をちぎらむ、 「ほんとに呑気(のんき)で宜(よ)いですなア」と云ふ端書の下に中村氏、 妻や子の 都に無くバ このままに 我れハ御母袋の 人とならバや、 皆(みな)笑ふて行く中(うち)に、歸(き)途(と)ハ道近き心地して、今日ハ早(はや)牧の里に來(き)たり。ここにて徳川候ハ「穴あき石」と十八歳の若者とを撮影せられ、鳥居氏亦(また)頭形を測定す。

福島にて一民家に憩(ひこ)ふ。徳川候ハ古き鉈(なた)入(いれ)などを採集せられ、鳥居氏また頭形を測定す。鉈(なた)入(いれ)に對(たい)して、中村氏代(だい)價(か)を拂(はら)ふ。家(か)人(じん)何(いづ)れも辞(じ)して受けず、互(たが)ひに遣(や)りつ返(かへ)しつす。人足(にんそく)傍(そば)より「折角のお思(ぼし)召(めし)ゆゑ頂いておけ」と云へバ、主人が妻漸(ようや)く手にして家(か)人(じん)をかへりみ、「こんな物に銭(ぜぜ)たもるとや」我れハ思はず耳(みみ)欹(そばだ)てぬ。何(な)んぞその語の斯(か)くまで古きや。全てこの地方の言語ハ、上方(かみがた)語の系統を引きたり、と云ふハ、唯(ただ)この一語によるにハあらず。十二時半出發。途中にて徳川候

ハ一ツの獨(まる)木(き)橋を撮影せられ、前記福島岸險(ほき)にかかれバ、今日ハ叉(また)一トしほの絶景にて、山水倶(とも)に美しく、宛然蜀(しょく)の山道(さんだう)に似(に)たり。(略)尾神の里に着かれしハ一時四十五分なり。行々(ゆくゆく)この里の

奴ひの數(かず)などを調査せられて尾神橋を渡り、ここに全く白川村に暇(いとま)を告げて來方(かた)を振返れバ、(略)時に二時十五分なり。我れハ一歩(ひとあし)お先に御免と坂を登れバ廣(ひろ)き野(の)あり。」読売新聞 明治37

(1904)10/28より

<9月2日、遠山家をAM11:00に出発。御母衣~牧~福島~尾神~海上。福島村の福島

谷に架かる丸木橋を撮影したようだ。福島歩危は絶景で、「歩危」と呼ばれる場所の風景は美しい。このほか、白川村平瀬地区に平瀬歩危があり、ここの景色も絶景である>

 

 9月2日、荘川村海上にて

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(九)その二続き 折から向ふに一行見えたり。待ち受け野を過ぎ坂を下(くだ)れバ、(略)先づ姑(しゅうとめ)の齢(と)を問へバ、「もう貴方九十六に成りまするがな」と云ふ。徳川候ハ既(すで)にコダクにて撮影あり、(略)三時十七分海上着。杉下方に休憩(きゅうそく)す。(略)直に下りて中野に至る。

徳川候ハこの地の小學校(荘川小學校分敎場)に立寄らる。児童既(すで)に去つて敎師夫婦のみ校舎に在(あ)り。就(つ)きて國民敎育の状況を問(と)はる。さて哀(あは)れなる先生也。日(にち)暮(ぼ)中畑に着き前日の宿に投(とう)ず。

時既(すで)に六時、雨また降出(い)でぬ。行程四里半。一日(じつ)先に歸(かへ)りし主人(あるじ)、一世一代の奔走(ほんそう)して、駄菓子、鮎の塩焼、茶碗蒸などを備(ととの)へ、双肌(もろはだ)脱いでの主人(あるじ)振(ぶり)に、徳川候ハ深く満足せられ、「この地でこれ程(ほど)の御馳走ハ、實(じつ)に容易で無かつたらう!」おつとぬかしたこの夜この地に於(お)いて、中村

氏に事ありたり。主人(あるじ)餘(あま)りに清(きよ)め過ぎて、桶(をけ)の箍(たが)弛(ゆる)みし為か、鉄砲風呂の底脱けて、深さ三間許(ばかり)の谷底に中村氏落ちたりと云ふ急報に接し、一座一時ハ打(うち)驚きしが、負傷(けが)ハ全く無しと聞き、先づハ安堵の胸を擦(さす)りぬ。跡にてハ笑ひと成つて徳川候に狂歌あり。 底(そこ)脱(ぬけ)の 騒ぎと云ふハ これだらう 先(まづ)ハよかつた けがも中村、(略)

 やがて直井村長見え、一(ひと)間(ま)にハ蓄音器始まりたり。隣室に聞きながら我れハ半分眠りつつこの回を漸(やうや)く書きぬ。」読売新聞 明治37(1904)10/29より

 <9月2日、荘川町海上~中野~(岩瀬村・牛丸村・牧戸村の記録なし)中畑、PM6:00宿に到着>

 

 9月3日、荘川村中畑の宿をAM6:00出発

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(十) 三日。午前六時中畑を發(はつ)し、雨を衝(つ)いて人車僅(わづか)に通(かよ)ふ郡道を高山に向ふ。車上(しゃじょう)少しく冷気を感ず。(略)とハ云へかかる口(こう)傳(ひ)も強(あなが)ちにハ捨てられず、「むかし飛騨國に猿に似たる巨人住めり云々(うんぬん)」と云ふことハ、彼(か)の甘(かん)雨(う)亭(てい)叢(そう)書の中にもありきと覚(おぼ)ゆ。如何(いか)なる種族ぞ。考ふ可(べ)し。(略)この地中畑より約里餘(り)の所に來たれバ、忽(たちま)ち峻(しゅん)嶺(れい)あり麥(むぎ)島(しま)嶺(たふげ)と云ふ。路(みち)嶮(けん)にして車行(や)る可(べ)からず。下りて一行喘(あへ)ぎつつ登る。(略)かへりみれバ車夫の一隊遙(はる)か

に遅れて影だに見えぬ。こハ元來車の通(かよ)ふ可(べ)き道にハ非(あら)ず。(略)時既に十時にして、標高亦海抜一千八百四十米突に達して、(略)一行の飛騨に入りてより最も高き所の地を踏むハ、」読売新聞明治37(1904)11/1より

 <荘川町中畑~麦島峠~。現在、荘川町中畑から高山市へは、R158を通行するが、清見町楢(なら)谷のR257から、県道73号線、郡上街道(せせらぎ街道)に出ようとしていたようだ。荘川村の昔話に、「猿神退治」があり、猿に似た巨人とは、渡来人のことか?>

「百年前の飛騨の旅行記 高山流水 編・挿絵 朝戸秀臣 (略)編者より この「麦島峠」とは、荘川の三尾河から清見の麦島までの直線で6キロほど、山道で2里あまりはあろうか。現在は、国道257号線と472号線が重なり合っている路線だが、地図上では2つとも麦島峠で途切れてしまっている不思議な国道である。現在、荘川側三尾河からは3キロほどの所で庄川に沿った道は明宝方面へはあるものの、峠へ向かう麦島方面への道は全く消えてしまっている。

 また、清見・麦島側からは2つの国道表示はあるものの、せせらぎ(郡上)街道から外れたすぐに「国道257号通行止め」の看板があって、1キロも行かない先にチェーンでふさがれていた。ほんの少しだが、この杣道を歩いてみると、今さらながら当時の旅人の苦労が思い知らされる。」高山市民時報H24(2012)年9/24より

 

 9月3日、清見村楢(なら)谷の麦島峠にてAM10:00

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(十)その二 嶺(たふげ)に在(あ)ること約三十分時(じ)にして、霧少しく薄らぎたり。車夫(しゃふ)まだ來(き)たらず。今ハとて發足(はつそく)し、北に面(むか)ひて嶺(たふげ)を下(くだ)れバ、(略)ここも亦(また)一ツの分水嶺を為(な)し、小渓(せいけい)樹間に生まれて、その音□々北に下(くだ)る。行々見れバこの辺(あたり)ハ朴(ほお)の木多くの部分を占(し)めたり。さて下(くだ)ること里餘(りよ)にして二條(でう)の道ハ丁(てい)字を為し、それも亦(また)両(りゃう)山(ざん)の間より來たり、一行の眼前(がんぜん)に一線をかくするやや幅廣(ひろ)き道ハ、美(み)濃(の)八幡町より飛騨高山町に通ずる縣道なりと云ふ。縣道に沿(そ)ひて二三の民家あり。いづれも木(こ)片(けら)葺(ぶき)にして石を載(の)せ、疊(たたみ)無きこと前の如(ごと)し。その一戸に就(つ)きて雨を避けつつ車夫(しゃふ)の來(き)たるを切(せつ)に待(ま)つ。日既(すで)に午(ご)に近く、一行大いに空腹を感(かん)ずれバなり。この地(ち)大野郡清(きよ)見(み)村に属し、字大原(おほはら)と云ふ山間の孤(こ)村にして水田乏(とぼ)しく、(略)一行の休みし家ハ木賃(きちん)宿(やど)にして、この雨に降込められし二三の行商、爐(ろ)に火を焼(た)きて暖(あた)りたり。座に怪しき袋三ツ四ツあり。

これハと問へバ南京(なんきん)米(まい)なりと云ふ。これこの辺の常食なりと云ふも甚(はなは)だ不可(ふか)なきなり。渋茶啜(すす)りて車夫(しゃふ)(實(じつ)ハ弁当)を待つこと約二十分。車夫(しゃふ)ハ來たらず雨盛んに降る。(略)大原を發し、雨を衝(つ)いて縣道を進む。(略)一嶺(れい)過(すぎ)去(さ)つて叉一嶺(れい)、(略)今叉新に瀧ヶ峯(みね)嶺(たふげ)と云ふにかかりしなり。

「腹ハ減ツたし、嶺(たふげ)ハ嶮(けは)し。飯ハおくれる、木の實(み)ハ靑(あを)し。石にや躓(つまづ)く、雨ハ降る。」と心窃(ひそか)に唄ふて登れバ、路ハ渓(けい)側を紆(うね)つて九回し、水清くして石奇なり。」読売新聞 明治37(1904)11/4

より 

<9月3日、清見町楢(なら)谷の麦島峠~清見町大原~瀧ヶ峯(みね)峠>

 

 9月3日、清見村の瀧ヶ峯(みね)峠にてPM1:00近く、

「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(十一) 一同意気(いき)全く銷(せう)沈(ちん)して嶺(たふげ)に達すれバ一戸の小舎(こや)あり。麓にて聞きし雪中(せっちゅう)旅人の難儀を救ふ官(くわん)の「お救(すく)ひ小舎(こや)」と云ふハこれなる可(べ)し。(略)時ハ既に一時に

近く、標高海抜一千五十米突なり。(略)爐(ろ)邊(べり)に上りて暖を取る。折から一人の車夫(しゃふ)包を抱(かか)へて走(は)せ來たる。渡すを遅しと中村氏奪(うば)ふが如(ごと)く受取りて分配す。中に柏(かしわ)の葉の一包(つつみ)あり、開(あ)くれバ何(いづ)れも生きたる如(ごと)き鮎(あゆ)あるを見る。車夫(しゃふ)ハ鮎の産地美濃上有知町の者、直(ただ)ちに串を削りて刺し、塩を塗りて爐(ろ)の火に炙(あぶ)る。迫まれる飢ハ鮎の焼くるを待たせずして望月の如き結飯一ツを殆(ほとん)ど圓(まる)にて胃に送らしむ。(略)

 

 哺後(ほご)直(ただ)ちに車に乗りて下(くだ)る。石多くして乗心地惡(あ)しきこと限り無し。(略)行(ゆ)くこと約二里にして清見村字有巣村あり。(略)これより叉坂嶺(たふげ)と云ふにかかる。歩して頂(いただき)に達し標高を撿(けん)すれバ9百十五米突にして(略)前の坂嶺(たふげ)より歩し來たること里餘(りよ)にして清見村字三ツ谷と云ふ村あり。(略)車來たれバ四時にこの地を發し、五時十分を以て清見村字三(みつ)日(か)市(いち)と云ふに着(ちゃく)し一茶(さ)店(てん)に憩(いこ)ふ。(略)道益々平坦也。行くこと約二里にして丘陵あり。頂に達して見渡せバ、峯(ほう)らん起伏圓(えん)周を書(くわく)せし中に地形宛(ねん)然(ぜん)湖(こ)に似(に)たる平原あり。眼(がん)界全て水田にして稲美なり。その東端に見ゆる山中(さんちゅう)の小市街ハこれ即(すなは)ち我が國(くに)のラサとも云ふ可(べ)き海抜五百米突の高山町也。(略)

 六時十分市(し)に入(い)りて江聲(こうせい)館と云ふに投(ごう)ず。館ハ神通川の上流なる宮川に臨(のぞ)みて立ち家(か)屋(をく)頗(すこぶ)る清潔也。主人(あるじ)2階の八畳四間(ま)をあけて、一行に供(きょう)す。浴(よく)後鳥居氏例によりて先(ま)づラムネを徴(ちょう)す。

 (略)やがて夕(ゆふ)餉(げ)の膳に向へバ、上方(かみがた)式の珍味眼(がん)前(ぜん)に山を為し、風味亦(また)甚(はなは)だ佳(か)也(なり)。(略)

 ただ口頭にて一礼申し、危(あやう)く例の村長さんを遣(や)らむとして部屋に歸(かへ)り、直(ただ)ちに屋(をく)下(か)の渓(けい)聲(せい)を枕にして眠りに就(つ)く。まつたこの日の行程二十一里。而(しか)もその半(なかだ)ハ徒歩したりき。」

読売新聞 明治37(1904)11/17より


 <9月3日、清見村の瀧ヶ峯(みね)峠~清見町有巣村~坂峠~清見町三ツ谷~清見町字三(みつ)日(か)市(いち)~高山市、江聲(こうせい)館に宿泊>

 「百年前の飛騨の旅行記 高山流水 編・挿絵 朝戸秀臣 (略)編者より この「龍ヶ谷峠」とは、明治の初めに開通した県道で、龍ヶ谷古道の西の端(ウレ)の峠を越えて2俣に通じる8キロ余りの峠道。現在の県道73号、せせらぎ(郡上)街道「西ウレ峠」(標高1120m)の事である。この県道は開通当時から、麦島~高山寄りの2俣部落間の距離が長く、民家も無いため、冬には命を落とす者もいたという。そのため地元からは何度も「お助け小屋」設置の上申書が出されていた。その結果ようやく、この年の三年前、明治34(1901)年に完成した。正式名称は「龍ヶ谷救助小屋」である。記録によると、当初の小屋番人は楢(なら)谷の三尾初五郎という。

 楢(なら)谷にある楢(なら)谷寺の住職・大楢(なら)明俊師によると、三尾家は麦島の地にあったという。ここに出て来る家族は彼の妻と子供であろう。」高山市民時報H24(2012)年10/1より

 

「百年前の飛騨の旅行記 高山流水 編・挿絵 朝戸秀臣 (略)編者より 有巣峠の登り口を探

して恵林寺前住職・広田令麿師に話を聞いた。この地は「有巣」「中野」「二俣」の3つの地名を合わせて「巣野俣」という。そして峠への登り口は、お寺のすぐ前から県道へと別れて山に向かっている。この峠は、昭和24、5年頃までは使われていて、当時は冬期間、高山方面からの木炭バスが三ツ谷や坂下までしか来られない時には、この峠道を歩いたものだという。

 しかし現在は、道らしきものはほんの150m程で途絶えており、一面に薮が覆って全く通れなくなってしまっていた。この区間の川上川に沿った、その後の県道は距離は2倍余りになったものの、新しくトンネルも作られた。」高山市民時報H24(2012)年10/8より

 

 9月4日、高山市の江聲(こうせい)館にて2日目、朝

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(十二) 四日。(略)江聲(こうせい)館(その實(じつ)渓(けい)聲(せい)館なり)ハ宮川(神通川の上流)の清流に枕(のぞ)みて、近く川の右岸に立ち、館前の木橋を鍛冶(かぢ)橋と云う。(略)皆(みな)浴衣(ゆかた)に用意の羽織(はおり)を重ねて、我が子の如(ごと)く火鉢を抱(いだ)く。朝餐(あさげ)後(ご)日(ひ)ハうた美なり。午前十一時と云ふに早ひこして高山發(はつ)。市を東北に去ること約二里にして大野郡丹(に)生(ふ)川村に至(いた)る。そもや高山附近の地ハ、この行(かう)に於(お)ける徳川候が第二の目的地にして、そハこの地方に於ける古墳並びに石器時代の遺跡を調査せらるるにあり。而(しか)して丹生川村ハ石器時代の遺跡ある所の一ツなり。先(ま)づ村役所に至(いた)れバ、(略)

徳川候ハ鳥居氏と倶(とも)に數(あま)多(た)の土器石族などを採集めせられ、遺跡の撮影にも時を移されて、歸(き)途(と)村役所に立寄る。村長土川平三郎氏徳川候をろう上(じゃう)に請(せう)じて、種々の珍しき石族、特にその形殆(ほと)んど完全に近き一個の大きなる土器等を陳列して参考に供(きょう)し、(略)夜(よ)に入(い)り燈火花の如(ごと)き高山に歸(かへ)り江聲(こうせい)館に投(ごう)ず。この夜(よ)遼(れう)陽(やう)祝(しゅく)捷(せふ)の提灯(ちょうちん)行列あり、(略)有名なる神通寺さんと申すお出家さまにて、(略)明日ハこの神通寺さんを眞先(まつさき)にして、郡長郡視學其(その)二三人の人の案内により、明朝七時を以(もつ)て郡役所に相(あい)會(くわい)し、それより當(たう)地方の古墳を始め、石器時代の遺跡などをバ、調査せらるることに成り一同枕に就(つ)きしハ既(すで)に十二時なり。」読売新聞 明治37(1904)11/18より

 

9月5日、高山市の江聲(こうせい)館にて3日目の朝

「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(十三) 5日。午前六時三十分一同結束して郡役所に向ふ。(略)七時郡役所に至る。(略)この山ハ、天正八年例の高山外記(げき)が居城せし所にして、(略)」読売新聞 明治37(1904)11/19より

 <この日、2~3ヶ所にて石族を採集>

 

9月5日、高山市にて、3日目の昼

「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(十三)(つづき)歸(き)途(と)一民家に就(つ)き、飛騨の名物例の「棄(すて)木」一把(は)を採集して、正午一(ひと)先(ま)づ江聲(こうせい)館に歸(かへ)り、昼餉(げ)を終りて國分寺に詣(まを)づ。寺ハ町の西端大名田村塔の下にあり。(略)この夜(よ)亦(また)徳川候を訪(と)ふ人極めて多く、町にハ祝(しゅく)捷(せふ)の提灯(ちょうちん)行列あり、」読売新聞 明治37(1904)11/20より

 

9月6日、高山市の江聲(こうせい)館にて4日目の朝、~9月7日、江聲(こうせい)館にて5日目出発

高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(十四) 6日。宮川の瀬の音に夢破れしハ五時なり。起きてろう上より望めバ、城山ハ煙雨に白く閉(とざ)されたり。鳥居氏眼を擦(こす)り宿を出(い)づ。校長の依頼によりて斐(ひ)太(だ)中學校に講話する為なりとぞ。朝飯前とハこれなる可(べ)し。午後雨を衝(つ)いて、徳川候ハ鳥居氏と倶(とも)に前記丹生川村に赴(おもむ)かれ、數(あま)多(た)の石族を採集して夜(よ)に入(い)り歸(かへ)らる。

 

 7日。城山濃霧に包まれたり。9時頃より快晴。數(あま)多(た)の人に送られて正午高山發(はつ)。天(てん)高うして気清(きよ)し。一言(げん)す「江聲(こうせい)館ハ好き宿(やど)なりき」(略)宮川の流れに沿ひて下ること二里半、午後二時吉(よし)城(き)郡國(こく)府(ふ)村大字廣瀬町、岡村利右衛門氏の邸(てい)に投(とう)ず。氏ハ飛騨有數の資産家にて叉(また)田園詩人たり。

 その廣(ひろ)き邸宅ハ數(す)奇(き)を凝(こら)して風(ふう)致(ち)人(ひと)の眼を捕(とら)ふ。家(か)僕(ぼく)の輩(ともがら)に至るまで礼服を着(ちゃく)したり。これより先き主人(あるじ)利右衛門氏ハ徳川候に一泊せられむことを望み、徳川候もこの地の古墳並びに石器時代の遺跡をバ調査せらるる便宜上(べんぎじょう)より今宵(こよひ)ハ一泊せらるるなり。」

読売新聞 明治37(1904)11/21より

 

9月7日、吉(よし)城(き)郡國(こく)府(ふ)村大字廣瀬町、岡村利右衛門氏宅にて

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(十四)(つづき)我れハ少し恙(つつが)あり中村氏と倶(とも)に岡村氏の邸(てい)に歸(かへ)る。夜(よ)に入(い)り八時を過ぎて一行ハ歸(かへ)られぬ。九時夕餉(ゆふげ)の膳に就(つ)く。この地も亦(また)食事の席に婦人出(い)ず。男子礼服にて給仕すること御母袋に同じ。(略)食後直(ただ)ちに談話に移る。席に土地の一史家(今飛騨史を編纂中なりと云ふ)あり。(略)明日富山に入(い)るにハ遅くも四時に出發せざる可(べ)からずと聞き、我等ハ殆(ほとん)ど結束したる儘(まま)にして寝(しん)に就(つ)きしハ一時なり。」読売新聞 明治37(1904)11/22より

 <高山市国府町広瀬の岡村利右衛門氏宅にて宿泊>

 

 9月8日、吉(よし)城(き)郡國(こく)府(ふ)村大字廣瀬町、岡村氏宅にて、2日目出発

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(十五) 八日。時針ハ三時五分を指(さ)せり。(略)一同朝餉(あさげ)の膳に着(つ)く。

(略)正四時車に乗りて廣瀬町を發(はつ)す。「今日も雨か」と舌打すれバ、車夫(しゃふ)母衣(ほろ)をかけながら霧なりと云ふ。北に向つて進むこと里餘(りよ)、古川町なりと云ふ。行くこと里餘(りよ)にして細江村字太江に達す。(略)これより歩して神(かん)原嶺(たふげ)(またの名を柏原(かしはら)嶺(たふげ)とも呼ぶ)の嶮(けん)を登る。濃霧未(いま)だ晴れず暴風寒し。六時二十分海抜八〇六米突の頂に達す。一ツ家あり就きて憩(いか)ふ。(略)七時四十分發。

(略)八時四十分嶺(たふげ)より下(くだ)ること三里半にして船津町に入る。町ハ倶に神通川の上流たる高原川と袖(そで)川との會(くわい)合地に位(くらい)し、(略)九時五分船津發(はつ)、高原川に沿(そ)ふて右岸を下(くだ)る。忽(たちま)ち見る對岸の山腹に神岡鉱山の製錬所數十棟毅然(きぜん)として天邊(てんぺん)に聳(そび)えたり。聞く彼處(かしこ)にハ新式の器械を備え、構内に電気燈あり電話機ありて便利少しも都會に譲らず、(略)やがて木(もく)橋あり、深淵の上に架(か)し、高原橋と呼びて神通の奇勝漸(ようや)く此處(ここ)に始まる。」読売新聞 明治37(1904)11/24より

 <高山市国府町広瀬の岡村氏宅~飛騨市古川町~古川町太江~神原峠~神岡町船津>

 

 9月8日、吉城郡神岡町船津にて

 「高山(かうざん)流水(りうすゐ) 堀内新泉(十五) 総(そう)じて船津以(い)北(ほく)七里の間(あいだ)ハ丈(じゃう)夫(ふ)的高山(かうざん)流水の境(きゃう)、(略)高原川の急流その間(あいだ)を曲折(きょくせつ)して北に奔(はし)り、無数の小(せう)渓(けい)南北よりこれに注(そそ)ぎ、両岸の山(さん)脚(きゃく)ハ石(せき)身(しん)にして絶壁屏立(へいりつ)七里に亘(わた)り、車道ハ左岸の巌頭(がんとう)を行(ゆ)き、(略)十一時二十五分東(ひがし)茂(も)住(ずみ)に着き、一旅亭に哺(ほ)す。(略)十二時半發(はつ)、村外木橋あり淵(ふち)に架(か)す。これ往時名(な)高(だか)かりし藤橋の架りし跡なりと云ふ。(略)程(ほど)無く國(くに)境橋に至(いた)る。これ飛(ひ)越(えつ)両國(りゃうこく)の國境(こくきゃう)也(なり)。(略)片掛の宿(しゅく)を経(へ)て一坂(はん)を□づれバ海抜二八〇米突の谷嶺(たふげ)の頂(いただき)に達(たつ)す。これこの山水の盡頭(じんとう)にして船津を去ること七里なり。

一茶店(さてん)あり就(つ)きて憩(いこ)ふ。三時十分嶺(たふげ)を發(はつ)して車(くるま)疾風(しっぷう)の如(ごと)く駛(はせ)下(くだ)り四時三十分海抜七〇米突の大澤野村に着(ちゃく)し、此處(ここ)に全く高山(かうざん)流水の旅を終りて來(こし)方(かた)を振返れバ飛騨ハ彼方(かなた)の天邊(てんぺん)に在りて今日ハ二階より下(お)りたる心地す。(略)富山市に入る。この地ハ流石(さすが)當(たう)國(こく)第一の大都會にして先(ま)づ見ると電燈あり、男女の風俗都に近く、(略)七時富山ホテルに投(とう)ず。(略)着後間(ま)も無く季(きの)家(へ)富山縣知事を首(はじめ)として人數(あま)多(た)徳川候を訪(と)ふ。」読売新聞 明治37(1904)12/4より

 <神岡町船津~神岡町東(ひがし)茂(も)住(ずみ)~(富山県)富山市片掛~富山市大沢野~富山ホテル>

 

 

 

 

 

 

 

徳川候、富山ホテルに到着をもって「高山流水」は終っているようである。その後について頂

いた資料より記す。

 

 「正四位徳川賴倫氏の學術的旅行 (略)富山市に出でて九月九日七尾に着し翌十日拂暁小船に棹さし能登島へ渡り西島村字須會の舊土人(エゾ人)が穴居せし舊跡(男穴女穴の二個あり)

を視察して同字及東島村野字崎並に中島村大字向田に於て人情風俗を調査し學術上必要の古物を探査し大に得る所ありしと云う尚字向田青山憲三氏宅に一泊翌十一日尚研究を重ね午後三時七尾に歸來し附近の人情風俗を覩て午後六時十分の終列車に投じ金澤市へ向け出發歸京せり」『考古界第四篇第四號』321頁明治37年9月20日発行(第四篇第五號)

 

 「徳川賴倫君一行の消息(鳥居龍蔵報)近頃坪井教授に寄せられたる通信に曰く(前文略)八月二十八日徳川賴倫氏一行とともに岐阜を發し、主として長良川に沿ふて進み申候、途中アイヌ語の地名の殘り居るもの少しく有之候當日は十四里郡上郡八幡町に一泊いたし候(略)」『東京人類學會雑誌第十九卷第二百二十二號』484頁明治37年9月20日発行

 

 おわりに、白川郷とアイヌ人、古代史で白山と位山に関する記述を紹介する。

 

 「七人塚 食するに鳥獣の肉を以てし、着るに毛皮を纒(まと)ひ、野獣にも近い原始生活をしてゐた民も追々と我等の先祖の壓(あっ)迫(ぱく)を受くる様になつて、彼等にとつては實(じつ)に平和な仙境も餘程變(かわ)つて來た。そして彼等アイヌ人の部落を襲つた吾々(われわれ)の先祖によつて、或は此村から追出され或は征服されてしまつた。現に本村長瀬區(く)小字秋町の田畑になつてゐる村の中央の地に昔から七人塚といひ小高く土を盛り其上に石もて墓やうのものを作つてある 之れアイヌ人七人を一緒に葬り、代々言ひ傳へて七人塚と稱(とな)へる様になつた。」『飛騨の大白川郷』117頁

 

「また、位山の伝承で飛騨遺乗合府には「位ヤマは諸木生える中に笏(しゃく)に用いる一位多し麓をまわれば廿余里宮殿の奥なり 府より麓まで七里余 この山を位山と言うこと天皇へ王位をたもち賜うべきことをこの山の主として身一つにして面ふたつ、おのおの足手あるなるか名は両面四手と言う」」『超古代史の検証』59頁

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