内ヶ嶋氏を斬る

 

 内ヶ嶋氏に関する疑問というとまずは出自、いわゆるご先祖様は誰でどこからやってきたのか?というものですが、自分自身の出自を考えてみたところで判るのはせいぜい数代前までで、江戸時代のご先祖様が誰なのか?作者にも分からないくらいなので内ヶ嶋氏がいくら戦国大名だとしても分からないことは多いのが当然で数少ない文献の中から推理していくしかありません。

 

 内ヶ嶋氏には3つの出自候補があります。

 

1.内ヶ嶋氏は楠木氏系統説

 「御花園天皇御代(1428-1464) 信濃国松代住人楠氏の末葉なる内島将監橘為氏、足利義政将軍の命を奉じて白川に来たり、其威勢を振るひ、村々を兼領し、寛正の初牧戸に城を築き勢強く、小鳥郷はさら也、越中国砺波郡川上郷も押領せり、家臣には山下、尾神、川尻等の勇士有りて、破竹の勢ひになりぬ」

 

 とあって、遡ればあの楠木正成に繋がっていきますが楠氏はバリバリの南朝方です。なのに時の政権、足利幕府将軍から命じられて白川郷に来たる、という辻褄の合わない説でもあります。ましてや内ヶ嶋氏は足利将軍の奉公衆という立場です。

 

2.「内ヶ嶋氏は西園寺北山大納言公宗(きんむね)系統説

 建武元年(1334年)に飛騨に流された西園寺公宗弟、経喬(つねたか)から始まり内ヶ嶋を名乗ったのが始まりです。

 

 経喬→経匡(つねまさ)→経薫(つねしげ)→為氏雅氏氏理

(この系図では内ヶ嶋氏はまだ三代です)

 

 こちらの系図では内ヶ嶋氏は時の政府に反逆したお公家さんの子孫ということになっています。

 

3.「武蔵七党、猪俣党系統説

 

 こちらの武蔵七党は元々、鎌倉幕府の成立に貢献のあった武士軍団で吾妻鑑にも登場します。 この七党の中に猪俣党というグループがあって、猪俣党に内ヶ嶋五郎国綱なる人物が登場します。まさにこの人が内ヶ嶋氏の始祖であるとするのが武蔵七党説です。 本拠地は現在の埼玉県深谷市内ヶ島だったようです。

 

 国綱忠俊→盛忠→景忠(他にも系統があり)

 

 この系図によれば、内ヶ嶋氏は武蔵国から始まり勢力を強めながら群馬県の太田市にある内ヶ島へ進出? その後、信州松代にも時の政権からの要請(命令)で移籍した可能性もあります。 移籍した松代時代にちょうど内ヶ嶋為氏が足利義政に命じられて白川郷へさらに移動したというストーリーも十分に考えられます。