帰雲城内ヶ嶋歴史研究会 活動記録

 

 帰雲城 内ヶ嶋歴史研究会の活動の記録を記していきます。

研究会員4名、それぞれの活動レポートのページもあります。

2013.6.8 研究会、赤谷と牧戸城を調査

歴史研究会、久しぶりの三名での合同調査になりました。 今回は保木脇・弓が洞谷の尾根を先発下二名が標高800m超を調査してきました。 私はその後からの参加で詳しいことは分かりませんが、後の報告を待ちたいと思います。

 

今回の目的は金森軍の飛騨攻め時、、、白川郷の動向にうち、照蓮寺や門徒はどうしていたのか?戦いに参加したのか否か? それともどこか別の場所に避難していたのか?それとも戦う前に和解して無傷だったのか?を探るため、最近、城跡なのではないか?と言われる旧荘川村、そして御母衣ダムに寄って水没した赤谷地区にある赤谷の山を調査してきました。

 

車で荘川支所を出発して岩瀬橋の手前を庄川右岸(国道156号線の反対側)を進み、旧落部地区を迂回して裏側から赤谷の山に到着です。 ちょうど画像の十字マークの場所から頂上(934m)を目指し、その間にあるといわれる城(砦)の遺構を見て回ることになりました。

 

途中、横浜に移築された合掌造りの住宅、矢箆原家(やのはら)跡地を見ながら車ではここまで、という場所に駐車し、そこからは徒歩で登り口を目指しましたが、登り口を間違え、一つ手前の山に登ってしまうという痛恨の事態になってしまいました。^^;

 

 

今回、装備としてアナログ式の高度計とiPhoneアプリの高度計とマップを持って向かったのですが、最終的な登り口の確認を怠ってしまったのが全ての原因だと思います。 途中まではまさか!間違った場所を登っているとは思わず、間違いに気付いたのが頂上に到着して登ってきた反対側に林道を発見した時でした。 「これはおかしいぞ?」とここで初めて地図アプリを開いて確認・・・完璧に一山、間違っていたことに気付かされました。( ̄□ ̄;)!! お昼の過ぎてしまっていたので次回のお楽しみということで林道を下山し、元の道を帰り牧戸へ向かった一行です。

下山の途中、景色のいい場所を見つけて御母衣ダム方面をパチリ。普段は国道沿いから撮影していますが今回はじめて反対側からの写真です。方向は尾上郷川や海上方面です。 ダム湖を見るとこの赤谷地区はもっとなだらかな山だと想像していましたが、下を見る限り結構な傾斜があり、登るのは案外、苦労したのかな?という印象を持ちました。 

 

また途中には、鹿の死骸があったり(山から転落したのではないか?)驚かされることもありましたがダム湖の水は綺麗でこの時点では水不足など微塵も感じられない御母衣湖でした。

2011.11.26 第一回「歴史会談in白川郷」

  11/26,画期的な歴史会談in白川郷が行われました。
参加者は4人、しかしトラブル等で集合時間の10時には全員が揃わず最終的には午後2時に喫茶「鄙」にて全員が揃うこととなりました。
 喫茶「鄙」のマスターが調査会の会員ということもあり喫茶店内の蔵書には、なかなか鋭い本が並んでいます。 帰雲城や内ヶ嶋氏に関して参考になりそうな貴重な本もあって、流石だなと感心。
 喫茶店で自己紹介のようなものも含めて色々と話しも弾んで今宵の宿へ行く前にここは近い所でもう一度、「荻町城」を調べてみようと、車で向かいます。 何度も訪れている場所ですが、やはりここは内ヶ嶋氏の大切な支城の一つですから念入りに。。。
そして本日の最終目的地である道の駅「白川郷」の地下にある資料室に入室して内ヶ嶋氏に関する資料を見てまわると同時に新たな発見がないか調べてみたところタグチくんが面白い記述を見つけました。 内ヶ嶋氏の五箇山における真宗関係の記述です。 この記述により、明日の目標が決まりました。
 そんなことをしているうちに夕方を迎え寒くなって空も暗くなって、いよいよ今宵の宿「朝日屋」さんへ。 しかし、宿の看板に電気がなく通りすぎてしまうという失態で到着が遅れました。。。(^^ゞ

 

  夕食までに露天風呂に入ろうということで民宿「朝日屋」さんには露天風呂があります。 宿から道を隔てた向こう側に石で囲まれた露天風呂があってお風呂からは帰雲山の崩落面が見えます。(昼間)

 

 お風呂で十分温まって、今度はお楽しみの夕食です。 今回、6500円の宿泊費だし、ひでさんの話では料理には期待しない方が・・・と聞いていたので当たり前に期待していませんでしたが、どうしてどうして・・・。 これはご馳走ですよ。 うれしい誤算です。 ビールを三本とお酒を一本頼んで私とひでさんでお酒1本をビールはたぐちくんと八十右衛門さんで飲んで頂きました。

 

 夕食を食べながらも飲みながらも話は続いて絶えることがなく、この後の「歴史会談」本番の前哨戦がもはや始まっている? ご飯も頂いてお腹も一杯。 宴席を離れて今宵の部屋へ向かいます。 そして今夜のメインイベント「歴史会談」の始まりです。

 

事前に4人が話し合いたい題目を決めてそれに関する資料を自前で揃えて当日、会議の席で資料を配り、その資料を元に皆で研究をしていこうという趣旨です。

 

各人が帰雲城や内ヶ嶋氏について興味を持っていることはそれぞれで、皆の考え方や想いが十分に伝わった一時でした。 こうして研究会を開こうとする場合の資料作成もなかなか楽しいものです。

 

庄川右岸と五箇山編

 

翌日は朝日屋さんを出て保木脇から対岸の木谷地区へ向かい、歴史研究家を名乗るT氏が城跡に間違いない!という場所に4人で行ってみました。 しかし、城跡と決めつけていた場所は我々から見れば、かなりの確率で自然にできた地形と断定できそうな場所でした。 いかにも城跡らしき地形にはなってますが断崖絶壁そばに堀切らしきものがあったり、と一見、間違いやすい地形。 残念ながらこの場所は城跡ではないと思われます。 まったく保木脇の対岸ということから何かがあった可能性も否定できません。 まあ、見張り台くらいはあったかもしれませんが。。。

 

さて、この後一応解散として私はTさんと一緒に五箇山方面に向かいました。

浄土真宗のお寺に目星をつけて内ヶ嶋氏について探るためです。

内ヶ嶋氏は最盛期、白川郷+五箇山→現在の砺波市付近まで治めていたこともあって越中のお寺を調べれば何か出てくるのでは? というのが我々の見解です。 というよりもう、過去の史料らしきものはお寺にしか残っていないだろうという予想です。

 

今回、何箇所か探りを入れてみましたがめぼしい成果はなく今回は空振りに終わりました。

しかし、まだまだ研究は入り口であり始まったばかりです。

まだまだ調査すべき場所はいくらでもあり、どこかにきっとまだ見ぬ史料や事実が眠っていると信じて帰途につきました。

 

今回の五箇山取材で面白かったのは北陸支部長の八十右衛門さんによる「銀の茶釜事件」についての聞き込みです。 五箇山の観光案内所に突入して案内所のお姉さんにこの質問をぶつけてみたところ、最初は穏やかに答えてくれていたのに、あるキーワードを耳にした途端、、、機嫌が激変して顔は怒りの表情に・・・。 これはどういうこと? ひょっとして何か、触れられない過去があるのか? 私と八十右衛門さんは、これ以上はやばい雰囲気の中、諦めて案内所を後にしました。 その後、村上家を見学し、村上家ご当主のコキリコ節を見せて頂き説明を伺った後、同じような質問をぶつけた八十右衛門氏・・・。 ご当主からはそっけない、回答が帰ってきました。「◯◯さんが勝手にそう言ってるだけでしょ?」みたいな。(^_^;) どうも、過去に何かこの五箇山という地域でヤバイ事件があって、これには口に蓋・・・我々は何かきな臭い物を感じた聞き込み調査でした。

 

とくに収穫はありませんでしたが、五箇山は加賀百万石前田藩の政治犯収容所になっていた場所で今もその時の収容所になった「流刑小屋」(写真)が残っています。 小屋の中には顔のなが~いお侍さんがこれからご飯を食べようとしている所のようでした。(^_^;)

 

取材聞き込みも終了し、八十右衛門氏と別れた私とたぐち氏は白川郷方面に取って返し、道の駅でお買い物をしながら飛越国境付近にある「聖徳太子像」が安置されているというお寺を見ようと立ち寄ってみましたが肝心のお寺は改装中で聖徳太子には会えず・・・聖徳太子に関連する「太子信仰」が真宗につながっていったのでは?と見ている我々は、こんな所にも焦点を当てて調査していきます。