荘川桜と御母衣ダム

 あの荘川桜のある岐阜県高山市荘川町(旧大野郡荘川村)にダム建設の話が降って湧いた(寝耳に水状態だったそうだ)のが昭和27年10月のことです。 この時期の日本は戦後の復興の真っ最中で電力需要の増大を見越して発電所建設が始まった時期で、なぜこの庄川流域のこの場所が選ばれたのか?というと。急流で水量が多く発電にはもってこいの河川だったと思われます。戦後日本の復興には貢献度大のダム建設かもしれませんが急に「ここにダムを作ります、立ち退いて下さい」と言われて「ハイそうですか、分かりました」と言えるはずもなく、当然のように地元では反対運動が始まって結局、交渉締結したのが昭和34年の11月ということですから8年間という長い反対運動の末、完成したのがこの御母衣(みぼろ)ダムです。34年の11月に交渉が終わりダムが完成したのが昭和36年1月のことです。したがって、すでにダムの運用が始まってから50年が過ぎ、反対運動が起こってからはほぼ60年が過ぎました。

 

 あたり前のことですがダムの上流には水がたまりダム湖ができるわけですから今までそこにあった村は水没することになります。実は、水没した地域は旧荘川村だけじゃなく、白川村の二地区も含まれています。元々、「白川郷」というと世界遺産になった荻町合掌集落や大きく広げても白川村のこと、、、と言うイメージが強そうですが実は、白川郷とは白川村と旧荘川村を合わせた総称のことをいい、旧荘川村を上白川郷、そして白川村を下白川郷と呼んでいます。また、この二村を合せて「荘白川地域」と呼ぶこともあります。

 

 ダム建設の影響で移転よ余儀なくされたのは村民と桜だけではなく、残っていた合掌造りの家やお寺、記念碑なども同時に移転させられることになりました。とくに合掌造りの家屋は横浜に移築されたり、ご存知飛騨高山の「飛騨の里」に移築されたりしていきました。また、移転したお寺の中には飛騨では最高峰と言われた浄土真宗のお寺「照蓮寺」(しょうれんじ)があり、この照蓮寺というお寺は現在、飛騨高山の高山城二の丸に移築されています。そしてこの照蓮寺の近所にあった光輪寺(こうりんじ)は岐阜県関市に移転していきました。 荘川桜として現在、咲き誇っている桜は、この2つのお寺に植えられていた樹齢約450年のアズマヒガンザクラになります。(移植された50年前が推定400年)

 

 タイミングもありますが、雪解けの始まる前や夏の活水の時期、御母衣ダムの水位が異常に下がることがあります。 そんな時、水没した湖底が姿をあらわすことがあります。一番わかり易いのが荘川桜のちょっと下流すぐ下に現れる、荘川桜を引っ張りあげたレールや照蓮寺の跡です。今年も私の仲間が3月に白川郷に行き照蓮寺跡に立ってきたレポートがあります。

 

 御母衣ダム建設における地元との交渉もダム建設も行ったのは電源開発(現・Jパワー)と言う会社です。(荘川桜関連の逸話等はこのサイトに詳しく載っています)荘川桜を移植作業も電源開発が担当こそしていますが実はそれらに必要な費用は公費ではなく、初代電源開発総裁だった高碕達之助氏その人の私財によって行われたそうです。(移植作業時にはすでに総裁の職に無かった)


 

 御母衣ダム建設によって水没してしまった地域と地区の名称

御母衣ダムによる水没地域+周辺の地名(詳細編)H.25.11.23

画像はカシミール3D、国土地理院発行数値地図25000地図画像及び、数値地図50mメッシュ標高を使用