御母衣ダム完成以前の水没地域の写真から

 

御母衣ダムの建設によって水没してしまった地域にもそれ以前には普通の生活がありました。 1960年前後のことです。 学校があり、神社仏閣があり、商店があり、事業所もあり、公共施設もあり、そして普通に暮らす住民の皆さんの住宅があり、住民の皆さんを潤したであろう、自然と産業がありました。 現在はダムの水の底になってしまいましたが、幸い、ダム建設直前の地域の暮らしや自然を収めた写真が残っています。 なぜ残されたか?それは、ダムの建設を行った電源開発(現・Jパワー)から荘川小中学校に勤務する教員の人たちに渡された二台のカメラによって失われゆく故郷の様子を撮影していたのでした。 偶然にもその撮影をした教員の方から直接当時の写真を借り受けるという幸運に恵まれて楽しく、そして緊張しながら写真を眺め、HPのいアップしたいと思います。

御母衣ダム建設直前の水没地域の様子

解体移築前の中野照蓮寺
解体移築前の中野照蓮寺

写真が現在の高山別院と高山城二の丸にある照蓮寺の前身、中野照蓮寺です。 中野とは、この地が荘川村中野地区だったので通称、中野照蓮寺と呼ばれています。 この中野照蓮寺ですが写真となると意外に残っていません。 図書館で調べても解体移築の報告書に多少の写真が残されていますが、当時の写真となるとなかなか見つからない貴重な写真です。 寺の境内にあった桜が、あの荘川桜二本のうちの一本です。 中野照蓮寺は以前、飯島正連寺として時の権力者、内ケ嶋氏と戦い、敗れて一度は火が消えてしまいましたが、照蓮寺側と内ケ嶋氏側の和解(本願寺の蓮如だ仲介したと言われる)により、新生照蓮寺として中野地区が選ばれ建立されました。 一本の大杉を牛に曳かせて止まった所が中野だったという伝説があり、その伝説を裏付けるように中野地区には牛の池という池がありました。

 

中野小中学校を挟むように右側に照蓮寺、左側に光輪寺がありました。 その配置通りに現在、荘川桜は植えられた・・・・・はずでしたが、肝心な桜の移植の時、痛恨のミスで桜の配置が逆になってしまったようです。 

 

 

照蓮寺 太鼓堂
照蓮寺 太鼓堂
左から二番目が高碕さん
電源開発初代総裁 高碕達之助

 御母衣ダム建設前に撮影された貴重な写真集 (H27.6.22)

以下の写真集は御母衣ダム建設が決まって水没地域の記録を残すため

当時、中野小中学校の教員をされていた方達が撮られた貴重なものです。

まだカメラが超貴重品で滅多なことで買えなかった時代、、、の

写真でようやく、カラー写真が出始めた頃ではないでしょうか?

この写真集には当時の普段の様子や生活がありのままに撮影されています。

また、珍しかったヘリコプターからの写真もあります。


(※画像をクリックすると拡大写真が見られます。)