保木脇築城の理由

 

 保木脇築城というと、すでに庄川左岸に決定しているような印象ですが江戸時代の文献をみると帰雲の屋形という表現の他にも保木脇に城を築くというような表現があることから、戦国時代にはまだ保木脇という地名はなかったとも言われていますがその時の保木脇という地域に城(帰雲城)があったと言っているわけでありますし、もし対岸の右岸にあるとしたなら木谷(対岸の地域)の城という表現になるはず・・・と考えます。

 

 帰雲城に関する疑問の中には「なぜ内ヶ嶋為氏は保木脇に帰雲城を築城したのか?」があります。 実は保木脇は築城するのに適した場所とは思われないというのが主な理由で文献にある在家三百(三百戸の家)の住めるような面積がないんじゃないか?または、帰雲城は北の荻町城と南の牧戸城がしっかり城戸(城門)の役割を果たして蓋をしているので守る必要がないのでどこでも良かったんじゃないか?と考える人もいるわけです。

 

 この意見に対して私は、今の保木脇を見るからそう見えるだけで地震の前にはきっと風光明媚かどうかまでは分かりませんが、少なくとも城を作るのに絶好といえるような場所が存在したと想像しています。 霊山・白山を頂点にして三方崩(当時はこの名ではありません)から皈雲山、そして尾根続きの小高い山に詰めの城が築かれ、麓には内ヶ嶋屋形があったんじゃないかと考えています。 重要なことは領主(この場合には内ヶ嶋一族と重臣)の居住する地区には決して庄川が洪水を起こしても水に浸かる恐れのない場所に館(住居)を構えていただろうということです。 したがって内ヶ嶋屋形があったのは庄川の水面よりはかなり高い位置にあり、在家三百と言われた一般住民が暮らしていた居住区はその下部分と推測できます。

 

   内ヶ嶋氏には有事の際、詰の城に篭って籠城するような意志があったかどうか?それは甚だ疑問です。地方の小領主である内ヶ嶋軍の総兵力は多くて数百といったところでしょう。だったら、籠城するより山の中を逃亡した方が得策のような気もします。当然、山には詳しく地の利があったでしょうし。 そんな理由から城郭とは言えないような一応の施設があっただけ、、、という可能性もあります。

 

 天正大地震の年の夏、内ヶ嶋氏は金森長近軍に攻められ牧戸城が陥落したんですが金森軍はその後、帰雲城へ向かい・・・・・ませんでした。いくら内ヶ嶋氏理が越中へ遠征中で帰雲城はほとんど空?だったにせよ、帰雲城には見向きもせず方向を変えて古川町(飛騨市)に向かったというのはあまりに無警戒。ひょっとすると、帰雲城とは城というより防御施設のないただの館だったのかも? 金森長近のもとに内ヶ嶋氏軍が帰雲城にいない、という情報は入っていたとは思うのですが。。。

 

 

 

 

 

地震前の保木脇の地形を推理してみる

 帰雲城と城下町の予想
 帰雲城と城下町の予想
平瀬より保木脇を見る
平瀬より保木脇を見る

 

 天正大地震前の保木脇の地形を想像してみます。(上のマップを参照して下さい)

 

 荻町城、牧戸城を参考にしながら考えてみると内ヶ嶋氏の城は比較的オーソドックスな天然の地形を生かした築城方法で大きな河川と谷川を利用しながら舌状に伸びた尾根の先端に築城しています。

 

 これに帰雲城をも当てはめてみると弓が洞谷が庄川に注ぎ込む合流地点の上辺りが濃厚ではないかと思われます。 したがって、今は崩れてありませんが旧皈雲山から伸びた尾根の先端が庄川付近まで来ており先端付近に内ヶ嶋為氏が帰雲城を築いたのではないか? という可能性があります。 奇しくもこの帰雲城の位置は絵図にある皈雲城址の位置と重なります。

 

 一方で在家三百と言われる城下町がどの辺りに展開していたのか、と言えばこれも想像の域を出ませんが、まず、在家三百は保木脇だけのものではなく対岸の木谷地区も合わせた数だと考えます。 今とは違って昔は庄川の水運が最もポピュラーな移動手段であり物資の運搬手段であったことが分かっていますから当時も普通に庄川を相当数の船が行き来していたものと思われます。 とって対岸の地域も含めて帰雲城の北側(知ったか谷方面とその対岸)に城下町が展開していたものと想像しています。

 

 果たして川向こうにある地域を城下町といっていいものかどうか?疑問はありますが、そもそも文献にある在家三百が本当に三百軒あったのか?本当はそんなになかったんじゃないの?っていう根本的な問題です。 作者の仲間も言っていますが戦国時代の合戦の兵力においても兵力の水増しは当たり前で数千が数万になったりしていたようなので在家三百もひょっとすると結構、ふっかけた数字かもしれません。

 

 実は江戸末期に書かれた斐太後風土記という飛騨地方の地誌(飛騨版の国勢調査のようなものでしょうか)によると当時の保木脇村の戸数は7戸で人口が70人ほど・・・つまり一家族当たり10人ということになりますが、かりに一戸10人とすると三百軒の戸数であればX10=3000人がいることになります。 これに荻町や鳩谷、平瀬といった大きな町を足していったら白川郷の人口があっという間に数万人になりそうです。

 

 以上のことから、当時の保木脇に3000人もの人が暮らしていたとは考えにくく多くてもその三分の一程度の1000人ほどではなかったか、と推測しています。結果的に作者は在家三百の信ぴょう性を疑っています。