そもそも帰雲とは?

 

◇白川郷保木脇には絵図や文献に”帰雲”という文字がたくさん現れます。ざっと見ただけでも帰雲山、帰雲川原、帰雲や字を変えて皈雲山、歸雲山などいくつもの帰雲が存在します。 では保木脇周辺のどこが”帰雲”だったのでしょうか? いろんな”かえりぐも”を集めてみました。

色んな帰雲がある

 

 文献や絵図、そして古い地図には結構、帰雲という文字が形は色々変わっていますが残っています。 その江戸時代中期から大正時代まで絵図などに残された色々な帰雲があります

帰雲は広範囲

 

◇こうしてみると多くの場所に”帰雲”が使われているのがわかります。 これらの史料から判ることは、”帰雲”はある特定のピンポイント的な山や地区だけではなく保木脇の対岸にある今の帰雲山の崩落面も含めた(現在の保木脇+木谷)一帯を総称して”帰雲”と呼んでいたのではないか?ということです。

 

 だとすると、多くの文献にも出てくる帰雲の城郭とか帰雲という在所という表現が書き手の感覚ではピンポイントで場所を言っているのではなく、帰雲というおおまかな広い地域を指していることになります。 つまり、帰雲の語源とも言える雲が山にぶつかって行ったり来たりを繰り返す・・・現在の帰雲山と昔の絵図に出てくる皈雲山を雲が行ったり来たりした辺りを帰雲と呼んでいた、、、かどうかは私にもわかりません。

 

  確かに多くの文献にある帰雲城の記述ですが、おそらく自分の目で帰雲城を見たことがある公家なり僧侶なりの記述ならわかりますが、その多くの人達は人づてに聞いた話から光景を想像して地震の様子や帰雲城が壊滅した事を書いたんだと思われます。

 

 だとすれば、ピンポイントで帰雲城を表現するのは非常に困難です。 とても庄川の右岸だの左岸だのという詳しい表現はできなかったでしょう。 だからこそ、帰雲城のある一帯を総称して帰雲と呼んだのではないでしょうか。

 

 写真の中に一枚だけ帰雲(穴?)(禿?)と書かれたものがあります。 これは、庄川右岸、よく見る帰雲山の崩落面を表した絵です。(他の帰雲はすべて庄川左岸の保木脇地区の絵図になります)ここにも帰雲があるとなると帰雲城の特定が難しくなりそうです。