内ヶ嶋氏登場〜

 

 内ヶ嶋氏の素性は足利幕府の奉公衆であった可能性が高いのですが、その証拠となる文献もいくつか残されています。

 

 ・天文日記 天文八年(1539年)11月14日条には、

 「(前略)、内島事は其身奉公之人、此方の所存に随ざる人也」

 

 ・貝塚御座所日記 天正十三年(1585年)11月29日の条には、

 「(前略)、飛州白川の帰雲と云う在所は、内島と云う奉公衆のある所也

 

 と書かれた日記があるように内ヶ嶋氏は奉公衆だったと言っていいでしょう。 (奉公衆とは足利将軍直轄の警備兵の軍だと考えて下さい) その奉公衆である内ヶ嶋氏に向けて時の八代将軍・足利義政が何故「白川郷に行きなさい!」と命じたのか? の理由は不明ですが白川郷が幕府の直轄地になっていた可能性が高いと思われます。 でなければ戦って奪い取らねばなりませんし。。。

 

 実は武蔵の国(埼玉県深谷市付近)から出た内ヶ嶋氏ですが、ある一族は武蔵を出て松代(現在の長野市付近)に移ったか、それとも幕府の命令で配置転換になったか? こうして内ヶ嶋氏は西へと移動してきた中、松代から今度はやはり幕府の直轄地であったと思われる白川郷にさらに配置転換となったのではないか? 室町幕府が信頼出来る奉公衆をできるだけ京都から近い所に配置しておきたい、という思いがあったのかもしれません。 現代風に言えば、信頼できる直属の部下を転勤によって移動させる、手段に似ているのかも。

 

 文献による「信州松代から来たる・・・」の意味はこんなところだろうと思われます。それ以前に内ヶ嶋氏が何をしていたのか?など飛騨で書かれた文献には必要がありませんから、直前の動向のみが記されたことで余計な混乱を招いた可能性があります。

 

 この時の内ヶ嶋一族の長は、初代「内ヶ嶋為氏」さんだと思われます。 この時の為氏さんの年齢は分かっていません。

 

 これが1460年頃だと言われています。 さて、信州方面からやってきた?はずの内ヶ嶋為氏一行が最初に本拠地としたのが牧戸の地でここに牧戸城を築いた・・・となっています。

 

 白川郷に到達した内ヶ嶋氏、、、牧戸(現・荘川町)からスタートします。 この牧戸から北上しながら白川郷を制圧していく過程の中で途中、現在の保木脇に帰雲城を築城したことになり、牧戸には信州松代から安房峠、あるいは野麦峠あたりを通過して高山に入り、現在の158号線を西に向かって牧戸に到着したのではないかな? と想像しています。

 

 

牧戸に陣地を確保した内ヶ嶋一族ですが牧戸城を築いて北上の足がかりを掴もうとするわけですが、すぐに宗教勢力との対立が起こったようです。。。これが、後に大問題となる「照蓮寺」との戦争に繋がっていきますが、文献に載っている歴史とはまた違った解釈をしようと思います。