昔の文献より帰雲城に関する記述をみる

帰雲城を扱った書物等の紹介

帰雲城についての記述がある書物の数はそれほど多いわけではありませんが、それでも全くない、というわけではありません。 後世になってからの紀行文(旅行記)や謎解き関連、関係自治体が制作した歴史書、小説の類まで幾つかはあるのが実情です。 今世に出ている小説や謎解きに関する本についてもこれらの資料を参考文献としたものがほとんどといっていいでしょう。ここでは余り世の中には表に出ていないが、それでいて重要な事が載っているような資料を紹介。。。

 

 

帰雲城を扱った書物等の紹介
                    2013 H25 01 03
 帰雲城を扱った書物等から、絶版、販売中、村史、そして普段
なかなか目にすることができない新聞記事、月刊誌週刊誌、広報
誌、論文・報告書等について紹介します。
 
 1、佐々克明著 
 まずは、書籍から「昭和47(1972)年6月『まぼろしの
帰雲城』佐々克明著、新人物往来社発行」のノンフィクション小
説が発行されました。この年、小説が発行されてから7~11月
まで立て続けに新聞社3社、TV放送1、月刊誌掲載2で取上げ
られました。「昭和60(1985)年11月『帰雲城大崩壊』
佐々克明著、書苑発行」もノンフィクション小説で現在、絶版で
す。帰雲城ファンにとって、このどちらか1冊は必須アイテムな
ので、古書で入手できればラッキーです。
 
 2、加来耕三著 
 現在発売中の書籍で、「平成23(2011)年『消えた戦国
武将 帰雲城と内ヶ嶋氏理』加来耕三著メディアファクトリー発
行」で、この本は帰雲城を知らない人が読んでも分かりやすいよ
う難しい字にはカナが振ってあり、古地名には( )内に現在の
地名を付け、読みやすいよう書いてある帰雲城入門編としての
アイテム1冊です。難解な文書(もんじょ)も振り仮名があり、
読みやすいので資料としても重宝します。手元に置いておきたい
アイテム1冊です。
 
 3、新編白川村史
 『新編白川村史上巻』219~333頁 帰雲城は白川村にあ
ったのだから、地元の村史を読めって、これがいちばん手っ取り
早いです。図書館などで読むことになりますが、飛騨地方の南北
朝時代~室町時代の出来事が書いてあります。内容は分かりやす
いようで、難しいです。
 
 4、新聞記事
 帰雲城を扱った新聞記事は、70記事あります。図書館の新聞
記事で帰雲城を検索すると、昭和30年以降からの記事のなかで
まず、「昭和36(1961)年4月4日朝日新聞記事、続ふる
さとの史話「帰雲城と照蓮寺」」がヒットします。この記事では、
内嶋氏と正蓮寺の戦いを取り上げています。昭和30年以前にも
帰雲城記事があるかもしれませんが、実際調べるのは困難という
か無理です。
 5、月刊誌週刊誌
 月刊誌や週刊誌で帰雲城を掲載、連載したタイトル数は6作品
です。最初に掲載されたのが、「昭和45(1970)年、月刊
誌宝石2月号『黄金の眠る幻の城ここにあり』松古孝三(談・構
成 佐々克明)」で、うさん臭い黄金目当てで発掘に来た人の裏
話が普通に書いてあります。これは図書館にあればぜひ読んでお
きたい1冊なのです。
 
 6、広報しらかわ
 帰雲城があった岐阜県大野郡白川村の広報誌で、「昭和53
(1978)年10月10日「広報しらかわ」村上良行著「白
川郷帰雲城の謎第1号」~昭和55(1980)年6月10日
「白川郷帰雲城の謎第19号」」まで、19回連載された(故)
村上氏の研究レポートです。この村上さんはあまり馴染みがない
名前ですが、実は庄川東右岸現地調査において活躍した人です。
 この連載のなかに帰雲城研究者にとって美味しい一文が幾つも
書いてあるので、一度目にしてほしいレポートです。もし岐阜県
図書館に所蔵されていれば大変ラッキーであり、図書館同士の貸
し出しのなかで全国の各図書館からでも2週間程度待ちで各図書
館でも閲覧できる かもしれません。
 
7、論文報告書等
 帰雲城を扱った論文・報告書等のタイトル数は、32作品です。
帰雲城のみを最初に発表した研究作品は、「昭和45(1970)
年6月号『飛騨春秋』に「帰雲城址埋宝伝説について」森本一雄
著」で、内嶋氏の活躍した事柄を書物から紹介しています。また、
埋没金伝説の信憑性についてしっかり触れています。
 帰雲城を扱った最初の学術論文は、「昭和51(1976)年、
金沢大学日本海域研究所報告第8号安達正雄著『白山大地震によ
り埋没した「帰雲城」と「木舟城」』」です。この論文は、帰雲
城を研究する人の必須基本資料です。この論文を岐阜県図書館に
蔵書としてあればラッキーです。

天正大地震後に書かれた帰雲城関連の文献

 旧HP「帰雲城と内ヶ島氏の謎」からの転用ですが天正大地震について関係する人達が伝聞から帰雲城と内ヶ嶋氏について書いた文献を紹介しています。

地震の起こった日付など若干の違いは見受けられますが現地を見ていない公家や大名、宗門等の書いた文献なので、これらの違いについては見逃しても良いでしょう。

この文献を分析することで帰雲城に迫ることができるのではないか!と考えています。

 

後になって書かれた紀行文

白川奇談(上)


●尾神より二十三丁野間見村歸り雲山水つき込ける時川水此所まで滴たりと云伝ふぬまえけるゆゑぬまみといふ事なりとそ野間見とは申侍る夫より福島村を過ぎて福島歩岐万仭の高嶺へ橋を渡し登り下る白川随一の難所にて内ヶ島家歸り雲の城郭の要害也

 

白川奇談(下)

 

保木脇村歸り雲山の麓也。 内ヶ島の時代には屋敷千軒もありけるよし牧戸よりつきそひ引っ越しけるなるべし内ヶ島家も父上野介雅氏の御代までは威勢も強く他国より押さるる事もなかりしが、兵庫頭の代と成りて家老河尻備中守と中違ひ次第に衰へ筑紫陣に討ち死にありて後は越中の領地も押領せられ有か無かに成給ひて白山権現の□罸にて城下まで一時に断絶せしとかや内ヶ島の定紋は左巴にてありける我先祖太郎左衛門正顕拝領して葉菊の紋を左巴に改し忍家也。今に於いて残り多きは内ヶ島の成行なり新右衛門の嫡子次郎□氏頃は金森家に仕へ百石の禄を給わりけるがその後を知ることなし。

 

飛騨史檀 岡本利平著(抜粋)


●六厩村森茂村何れなりや未考のよし前段に述べたれ共、再案するに是は必然森茂村を通過したるものと定む可し、尾神村の北に当り白川右岸に秋町といふ部落有り、此所より森茂村を経て小鳥川流域の大谷村へ通ずる路有り、上村満義の飛騨国中案内に「秋町より森茂村まで二里半、森茂村より小鳥郷の内大谷村へ二里程あり」と記載すれば疑うべくもあらざるなり、此時若し白川左岸の本道を下りて歸雲城を落とし天生峠を越えんとせは、先つ白川巡行に「福島村を過ぎて福島歩岐万仭の高嶺へ橋を渡し登り下る白川随一の難所にて内ヶ島家歸雲の城郭の要害也」と記し・・・・・・・・・・

 

飛騨山川

 

●「飛騨山川」も旅行記の一つで、その中の白川郷に関する記述によると、野谷より十七町、保木脇海抜六五三米に至る。 此地今は粛條たる寒村なれど往昔は白川郷及び
 越中砺波郡の大半を領したる内島氏の居城ありし所
にて、此家殊に本願寺とは密接の交渉有り真宗発達史の数頁を塞ぐべき要素を備ふれども、惜哉、天正十三年十一月二十九日夜の大地震に城市悉皆土中に埋没して滅亡し、其跡于今荒野となり、隨而白川は東方山麓に押迫られ居れり

●三方崩岳より来る渓流に架したる歸雲橋を渡れば、野谷庄司山正北の半空に其の豪壮な姿を
 顕し、やがて保木脇の村に入る。 附近、樹草深く閉じたる波状地より川を隔てたる対山は山皮大崩壊して赤色の肉露なり、伝ふ天正十三年十一月二十九日の夜深く、大地震ありて今見る山稜一時に崩壊し、内ヶ島兵庫助氏理が歸雲城は云うまでもなく、城下三百の民家悉く埋没して一人を残さず、白川の水は爲に堰かれて逆流し、上流約三里、福島の南方尚「のまみ」の地名を存して大氾濫の歴史を語れり。対岸を望めば大山の崩壊せるもの今尚赤裸々のまま屹立し、当時の惨状を追想せしむ。
                             白川観光録   中村 封山