お城めぐり紀行

加納城跡(岐阜市)

 

 私が加納城跡を訪れたのはナント、元旦の朝。 実家のある岐阜市に戻っていた作者は早起きして「初日の出」でも拝もうと思い、実家を東へ向かって歩いて行きましたが、この時点ではまだ、加納城に行くつもりではありませんでした。 ところが東に向かって歩いて行くと自然と加納城の近くに来てしまっていました。 途中に立ち寄ったコンビニで温かいコーヒーを購入すると加納城はもう目の前に。。。

 

 「これは行くしかない!」

 

と、急遽、初日の出は何処へやら・・・(^^ゞ

元旦からお城めぐりのスタートです。

 

 加納城は現在は公園になっていて早朝や夜間は入ることができません。 よって見ることができるのは公園の外のみ。。。しかし、加納城の本来の遺構である二の丸の石垣は公園の外にあるので心配ご無用です。

 

 写真にもあるように加納城の二の丸には現在、「岐阜地方気象台」があります。 この二の丸と三の丸に建っている「加納小学校」の間には当時、水堀がありました。 二の丸の石垣は丁度この境にしっかりと残っています。 しかし、石垣は小学校のグランド内の方がしっかりと見えますが小学校の敷地なので無断侵入はいけません。 しかし、ちょうどここに「加納城」の説明板があるのでこの看板を参考にするとよいでしょう。

 

 加納城の北側に回ると大手に出ます。 現在の大手町交差点より加納城まではおよそ500mの直線です。 大手門に至るまでの500mの間には西の丸などの地名が残っており現在は中学校になっています。 

 

 加納城周辺には城があったことを確かなものとする地名が多数残っています。 大手町、西の丸、東の丸、などのそのまま残っている地名もあれば、矢場町、鉄砲町などの軍事関連の施設があった場所も地名として残り、面白い所では「龍興町」があります。 

 

 直接的にはまったく加納城、徳川幕府には関連のない地名ですが「龍興」というと想い起こさせるのは、斎藤道三→斎藤義龍→斎藤龍興と続いた美濃の斎藤氏の三代目、斎藤龍興の「龍興町」です。 ヨミは「たつおき」ではなく「りゅうこう」ですが。。。

 

 最後に加納城の初代城主はあの長篠の戦いで僅か500の城兵で長篠城を死守した「奥平信昌」です。 奥方は徳川家康の長女「亀姫」、、、、のちに加納殿と呼ばれました。 奥平信昌夫妻の墓所が加納城跡より数百メートル西のお寺にありますが、なぜか拝観禁止になってます。