旧荘川村・御母衣ダム水没地区の地図(絵図)による復元計画

内ヶ嶋氏を研究していくと避けて通れないのが照蓮寺という真宗のお寺です。元は白川村の飯島にあった正蓮寺が内ヶ嶋氏との戦いで消失し、のちに復興するわけですが、復興した場所が中野と言う地域・・・白川郷の真宗門徒の期待を一心に集めた「中野照蓮寺」は巨大寺院としてこの中野の地に君臨し続けたわけですが戦国時代が終わり金森長近によって中野から高山に移され(遠ざけられと言う表現のほうが良いかもしれません)、普通の寺院として中野に残った照蓮寺は地元の寺院として留まり続けるはずでした。ところが、今度はこの地域に御母衣ダムの建設なる話が降って湧き、長い闘争の末、結果中野照蓮寺はダム底に水没する運命となりました。かろうじて「荘川桜」として照蓮寺と光輪寺の桜が救われて今の地に移植されたのは有名な話です。 また、最近水没地域に城址(砦跡)等の発見もあり、過去には金山もあったということで水没を免れた比較的標高の高い地域の調査も必要になってきたようです。 水没地域の皆さんがダム建設によって故郷を離れたのが昭和三十年代半ばのことなのですでに50年以上の年月が経過し当時の記憶を伝えてくれる方も少なったと聞きます。それでも過去には旧村民の方が当時の記憶を回想した冊子も出されており、かろうじて当時の様子を伺うことができますし、離村された方々の中にはまだまだ元気でいらっしゃる方もいてお話を聞くことも可能ですが、こうしたことができるのもあと数年かもしれません。 そこでできるだけ多くの旧村民の方にお話を聞き(聞取り調査)、すでに資料になっている文献も参考にして、御母衣ダムによって水没した旧荘川村の水没地区の地図(絵図またはジオラマになるかもしれません)を史跡や地名等の云われ(由来)や伝承なども書き加えたものを作成してみようという、計画を立てました。 現在は情報を集めている段階でまだまだ聞取り調査にも挑む必要がありますが基本的な資料は揃いました。あとは、資料の精度を高めるためにさらなる聞取り調査を幾つか行うことが必要になるでしょう。 最終的にはポスターにして配布できれば・・・と考えています。

 

まずは資料集め

 すでに御母衣ダムにはとんでもない量の水が溜まっているのでダムが役割を終えて撤去でもされない限り水没地域が元に戻ることはありませんし、仮に以前の庄川に戻ったとしても復元できそうなものは道路くらいでしょう。建物はもちろん、殆どのものが無くなってしまったわけですから当時(昭和30年頃)の姿を取り戻せるとすれば当時の写真と地図、そして元住民の方々のお話を聞いて摺り合わせて精度を上げていくしか方法がありません。

 

 おかげさまでお話を聞く(聞き取り調査)方々にも恵まれ、同時に写真も快く提供していただいたりと現在のところは順調に進んでいます。あとは図書館に通いながら重要と思われる本や箇所を見つければ借りて読んだり複写させてもらったり、昔の文書を見せていただけるようなばしも通ったりしています。

 

 また、水没してしまったとはいえ、未だ標高の高い部分は水没していない場所も僅かではなりますが残っている所があります。 そんな場所にも入ったりしてとにかく当時の様子がわかるような場所は全て、知っておきたいというのが本音です。

 

 最終的にどれだけのものが集まって、どれだけのものができるのか? これはまだ分かりませんが元の住民の方々、また一般の人達が見ても当時はこんな感じだったんだな、と納得していただけるような地図(絵図)を作って行きたいと考えています。

 

当時の地図探しに大苦戦・・・

 御母衣ダムの底に水没してしまった集落を地図上とはいえ復元するためには御母衣ダムが出来る前、すなわち最低でも昭和35年より前の地図が必要になってきます。地図がないと復元できない、、、と言っても過言ではないほど最重要なアイテムです。 当時、どの場所に学校があり郵便局があり、貯木場や照蓮寺、光輪寺といった建物がもちろん、岩瀬橋やブラ橋といった橋脚に道路、庄川に付けられた色んな淵の名前、そして過去の歴史の証拠になる古戦場や代官屋敷の跡など、現在の湖になってしまった地図をどれだけ見たところで復元のしようがありません。 ですから当時の地図は必須。。。

 

 ところがです、その重要な当時の地図が恐ろしいほど無くて困りました。当初はもっと簡単に見つけられると高を括っていたのですがアテにしていた所はほぼ全滅・・・(T_T) 逆に言えば何故、これほど当時の地図類が残っていないのか?不思議になります。 もちろん、建物の場所まで復元しようというのですから地図の縮尺は大きければ大きいほどいいわけですが、ここまで表そうとするとかなり縮尺の高い地図が必要になります。 縮尺の荒い5万分の1とか、そういった地図なら残っていますが、これくらいの縮尺だと参考にはなれども到底、建物まで記入できるようなシロモノではありません。

 

 そこで目をつけたのが、まずは高山市の公文書館。 こういった各自治体の公文書を集めた公文書館というものは全国的にも珍しそうです。ここではストライクにはならないまでも一部、ビンゴ!となる地図が見つかりました。地図以外ということなら、かなりオイシイ資料が何点もあり大収穫でした。

 

 次に目をつけたのがやはり道路や山という事なら岐阜県庁だろう!ということで林政部治山課と道路整備課とコンタクトを取ってみたところ、、、、結果は無残にもアウト。 県庁にさえ当時の地図はただの一枚もなく、気を利かせてくれた県庁の担当者のからは県図書館に所在を聞いてくれるというご親切な対応に感謝。 しかし、肝心の地図は見つからず・・・

 

 新たな地図探しは暗礁に乗り上げてしまいましたが幸い、仲間がある筋から結構精度の高い当時の地図を過去に入手しておりまして、これを使うことに決めました。

 

旧住民の方々の証言(聞き取り)

御母衣ダム建設前の水没地域の地図の必要性はもちろんですが、この地図を元に旧住民の方々にお話を聞かなくてはなりません。実際に地図を見てもらって「ここはこうだった」「ここに橋がかかっていた」とか当時の記憶を呼び覚ませてもらいながら旧所名跡や川の位置、道路、建物などを確認する作業に取り掛かりました。 取り掛かったといってもすでに私の仲間が数年前から目的は違えど、旧住民の人の中から有力な人たちに聞き取り調査を何度も行なっており、私は後から乗っかる形で参加しています。現在は、入手した地図に書き込めるだけのものを書き込んで、それが間違っていないか?を聴きとっての調査です。

 

御母衣ダムが完成してすでに50年を過ぎ、当時25才だった人ですら、すでに75歳を過ぎ、聞き取ろうにも残念ながら故人となられた旧住民の方も多く、今後はさらに話を聞くことが難しくなってくるのは確実で、この点は急がねば・・・と危機感を抱いています。しかしながら、偶然というか私の実家のご近所さんに旧住民、それもかなりの有力者の方が今だ健在で、いろいろな情報。そして当時の資料を提供していただけるので非常にありがたいです。

 

このようにして何人かの方に確認をしていただければ記憶違い?といった間違いを防ぐこともでき、より正確な地図(絵図)を作ることができるんじゃないか、と思われます。

 

ここまでの進行状況は・・・(★9/24更新しました)

御母衣ダム水没地区復元計画は始まったのは2012年、今年の6月のことです。 白川郷埋没帰雲城調査会の総会が5/24に行われ、この日開催された講演会の中で今まで存在の知られていなかった「赤谷城」(史実かどうかはわかりません)が発表され、この赤谷城らしきものがある場所がまさに、水没地域にあった赤谷地区でした。 現在は御母衣ダム湖の右岸にあり、そう簡単には行けるところではありません。 城の存在はともかく、我々はこの赤谷地区や水没地区にあったかもしれない、同じ「海上(かいしょ)地区」の日崎(ひさき)城という存在もあり、いやでもこの地域を調べなくてはならなくなったというのがきっかけです。 たまたまではありますが私が興味を持った以前に仲間のひで氏が日崎城について調査をしており、水没以前に暮らしていた元住民の方に聞き取り調査まで行なっていたアドバンテージもあって、私はすんなりとこの調査に苦労することもなく参加することができました。

 

それからというもの、暇さえあれば二人で集まり、別行動ではありますが図書館に通ったり現地へ行ったりして資料を集めることに集中しました。 何しろ50年前のことを当時のことを知らない我々が掘り起こすのは簡単ではありません。 50年という年月が長いのか短いのかは分かりませんが、ここまで調査を進めてきた印象で言えば、確実に御母衣ダムができる前の記憶は風化しつつあります。 というより、当時の事を話してくれる、また記憶に残している人がとても少なくなっていることです。 当時、仮に中学生以上だった人でも65才程度、成人以上の方々は70才以上と、どこまで当時の記憶が蘇っていただけるのか、不安でもありました。 また、ダム建設以前の暮らしぶりを記録した史料も数が少なく、地図にいたってはダム建設前の地図が一枚以外存在しない、というのには衝撃でした。 もっとも地図関係は補償交渉のこともあって秘密にする必要があったようです。 古い行政の資料を公文書館に求めましたが地図類はほとんど見つからず、水没地域の復元の壁の高さを改めて思い知らされました。

 

しかしながら、ダム建設の補償交渉に深く関わったある人物、、、この方がたまたま私の実家のご近所さんで家族ぐるみで仲良くさせていただいていた関係で膨大な当時の資料・写真を提供していただくことができました。 更には当時のことを話していただき、それを聞き取りながら確認作業を行いました。 これが今年8月のことです。 比較的、運も良かったこともあって資料的にはかなりの部分が揃ってきたと思われます。

 

今後の作業は当時の地図を元にして地名、谷の名前、橋の位置と名前、名勝・旧跡などの特定、学校や公共施設の確認、、、このような作業から当時の絵図を作りたいと考えています。