帰雲城&内ヶ嶋氏 入門編

 

 そのまんま、帰雲城と内ヶ嶋氏がある程度簡単に理解できるようなページを設けました。 このページを読んでから本編へ入っていくとスムーズに分かっていただけるのではないかと思います。 是非、ご活用下さいませ。


 帰雲城について

 

帰雲城は、キウン城、カエリクモ城、カエリグモ城と幾つかの読み方があって現状では色んな読み方がされています。

しかし、このHPでは「かえりぐもじょう」に統一して進めていこととします。

 

 そして、内ヶ嶋氏(うちがしま)の場合も、内ヶ島あるいは内ヶ嶋また内島と異なる書かれ方があって実際の文献によってバラバラです。 事実、旧作の「帰雲城と内ヶ島氏の謎」では内ヶ島としていました。 しかし、今回はとくに理由はないのですが、内ヶ嶋で統一して書いていくこととします。

 

 白川郷というのは、岐阜県北西部の白川村そして高山市荘川(しょうかわ)町を合わせた地域の総称です。 数年前までは白川村と荘川村でしたが荘川村は市町村合併により荘川町と改められ、高山市になっています。

 

 帰雲城があったとされる保木脇(ほきわき)という地区は白川村の荻町合掌集落から南へだいたい10Kmほどの所にあって御母衣ダムで話題になった「荘川桜」から北へ数キロの所になります。(ページ下に保木脇周辺のMAPがあります)

 

 地名の「保木脇」ですが元々「保木」は崖の切り立った所のことを言うそうです。

徳島県の観光地で有名な大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)の歩危(ぼけ)と保木(ほき)は同じ意味と捉えてよさそうです。

 

 保木という地名は結構あるみたいで私のすぐご近所にも保木という屋号を持つ家がありますし調べれば保木という地名はたくさん見つかるのでないでしょうか。

 

 で、保木であれば断崖絶壁の渓谷のような場所になりますが、ここは「保木の脇」、

つまり、崖の切り立った場所の脇、隣?とか横の意味で少なくとも保木脇は保木ではなさそうです。 実際、帰雲城跡とされている観音様のある所もとても保木と呼べるような所ではなくなだらかな河岸段丘の下の方という感じです。

 

 内ヶ嶋氏について

 

◇詳しい事は内ヶ嶋を斬るの項目で述べようと思いますが正直、非常にやっかいで難解な戦国大名です。

 

 もっとも文献や書状といった史料の乏しいのが一番の原因ですが天正(てんしょう)大地震によって一族のほとんどが亡くなってしまったのでその後がプッツリと途絶えてしまいました。

 

 1460年頃、白川郷に姿を現して以降、地震で滅亡するまでの約125年の期間、内ヶ嶋氏は数年前まで三代だとされてきました。

しかし、新たな証拠が見つかって四代にやっと改められました。

 

 事実、内ヶ嶋氏のことを書いた小説(後述します)も数冊ありますが古い小説では三代という設定で物語が進行するんですが、どうしても計算が合わない・・・

 

 白川郷での内ヶ嶋氏の初代は「内ヶ嶋為氏」(ためうじ)という人ですが三代だとこの人が100歳近くまで生きてくれないと後が厳しくなってしまうのです。

為氏さんと最後の城主「内ヶ嶋氏理」(うじさと・うじまさなど諸説あり)さんが異常なほど長生きしないと成立が難しいのでした。 その疑問も四代と改められて無事、解決しました。

 天正大地震について

 

◇帰雲城落城も内ヶ嶋氏滅亡もその原因はただ一つ、「地震」です。

1586年の1月18日に起こった通称「天正大地震」です。

時刻は夜の11:30頃だと言われていますが、大寒の頃なので豪雪地帯白川郷には相当な積雪もあったのではないかと予想されます。

 

 この天正地震はどのような地震だったかというと主に中部地方と近畿地方で大きな被害を出したようです。 帰雲城に限らず他にも多くのお城が倒壊しており、また各地で液状化現象による建物の被害も多数出ています。 しかし震源域と震度はいろんな説があって分かっていません。

 

 山津波、という表現もあるので相当なレベルの災害だったと思われます。

この地震によって富山湾に向かって流れる庄川が一時的(20日間程度)にせき止められて土砂ダムができたという記録があります。

その土砂ダムに貯まった上流からの水が洪水の被害を引き起こしたという記録もあります。

逆に下流では水の流が無くなって魚が取り放題だったとも・・・

 

つい先頃、台風12号の集中豪雨で奈良県では数カ所の土砂ダムができましたが、ちょうど同じような事が400年ほど前に白川郷で起きていました。

 

被害が出たのは白川郷だけではなく、加賀(石川県)でも木舟城という前田家のお城が倒壊し京都の三十三間堂の仏像も多くが倒れたという話もあります。

もちろん、被害はこれだけではなくあちこちで被災しています。

 

マグニチュードに関しては7.9とか8.1とか言われていますが、正直言って測定器もないのに分からない、けど被害から見るとそれくらいが妥当なのでは?

と、そんなレベルだと私は想像しています。

 

もし、この地震が起こらなかったら・・・

その後の帰雲城と内ヶ嶋氏はどうなったんでしょうね?

後の安政地震で結局、同じ事に?(^^ゞ

 

 今年3月11日に東日本大震災によって多くの方々が亡くなりまた被災しましたが

約400年前にもこの地で大地震が起こり山津波によって多くの人命が奪われ、また

被災しました。

よって作者も手を合わせたいと思います。

 

 白川村保木脇という場所

 

 このサイトの主役、白川村保木脇付近をGoogle Mapで表してみました。

 

 おおよその説明をすると、マップ右上に「帰雲山」が見えます。 その左にある三角の白い部分が崩壊面・・・トップページの写真の帰雲山崩壊跡になります。

こちらが現在の帰雲山です。(現在と言うところがミソと言うか、疑惑の山になります)

 

 一方、左下の広範囲に白い一帯の頂点が三方崩れ山でこの山の北西もしくは北北西あたりに帰雲という山、あるいは地名(字名)があったことが古地図で確認されています。こちらの帰雲山は昔の漢字の「皈雲(かえりぐも)」や「歸雲(かえりぐも)」また「返り雲」と言った表現があります。

 

 保木脇という地域はだいたいマップの中心部上の辺り、白川街道と書いた一帯が保木脇です。ちなみに黄色い線が国道156線になり、もう少し北にいけば荻町に行きます。

 

 このHP上では、これらの地名や山の名前は謎解きにあたって頻繁に出てくる文字列になります。 他にも「堂の上」(どうのうえ)とか、「シッタカ谷」、「弓が洞」(ゆみがほら)など現地の地名(字名)等が何度も出てきます。

 

※ご注意下さい

 マップ上をマウスホイールでコロコロするとマップの位置が変わってしまいます。うまく表示できなくなった場合にはページごと更新するか、いったん他のページに移動してから戻ればまた元のマップに戻っています。

 

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